(2)匿名者の憂鬱

 何もかも過不足なく現行である。日づけが回る頃に書く。

 かにパルサーの俺ガイル論を読み返した。そういえば当時の私は感化されてアニメだけ見たのだった。今度本屋へ出向けたら須らく購うべきは全巻かも知れない。それだけ再び感じ入った。高二の六月なんてのはもう、私の匿名者が板に付いてきた頃で、どうも当該の記事が面白かった位だから実際明らかだろう。

 三年と四箇月の隔たりはどうとも筆舌に上らない。ひとつ気になるところは匿名者の憂鬱という情緒である。それだけ昔から私を取り巻く匿名者らの号を存じて、一こう私は彼らに関知されないらしい境遇に居る。いつからか際だって強調されてきた存在の彼らなのだが、どうしてかと言えば高校生以後を断然社会人に合致する自己の認定を以て過すからである。その私へ思い遣るに特段やはり過不足の心配なところは無い。現行の三千沈痛勇者世界もまた射精する。

 私は自信家である。大学生になって社交というものを不可とし、全く出来ないわけだが、全然後ろめたくはない。ひとり匿名者の憂鬱ばかり凝然として頭を擡げる。それは他者が馬鹿げて見えるということで、抜本的に直すことの出来る傾向でない。恐らく現在以後も果てしなく続くだろう匿名者の憂鬱というものは、即ち社会人以後に特有の難関なのだろう。以下それを少し随意に纏めてみる。

 大学生とは、なんという不憫な地位にあるのだろう。自ら哀れに感ずることは変ではあるが、大学生と言っても因みにこの私の現行として感じている。以外の者は関知しない。だいたい世に規定では子どもという範囲にやっとのこと逸する、遂に高校生以後と展開してからがまたその世界史の始まりなのだが、つまりは小中高に於て小中以前は捨象されて大人が開始されるわけで。

 夏目漱石の『こころ』には実家と進学先の問題が出てくる。そういや近代てのは創作のネタにも事を欠かない。それだからかあるいは現代語の基礎が顕著だからか、近代文学史筆頭夏目漱石は広く浸透している。そうしてその割にまともに読まれているのか判然としない。つくづくこの頃、やはり名は常識でも実のところは、極めて専門的な存在なのが分る。尤も私は実際にどれだけ読まれて、当代に如何に解釈されているかなど調査も研究もしない。

 序でに数学を全く高校生以後学ばない点。ちょうど良いから弁解して置くが、結局あんなのは何にも言ってやしないじゃないか。現に私は言葉の力を信じていたからこそ、繋累と渡り合って親の言いなりめいた人生にはならずに済んだ。世に言う文学部就職出来ない御爺さんてのは、ありゃアンチだという構造になっている。家というものは定めて子を支配下に置き、所属の家から脱せぬことを原則的には理想と定義するだろうから、必然儒教の影響下に親類且つ男性を担う者が長男の俺を、以前そう評して冷笑したのも帰着する。

 冷静に考えてみれば難しく思う懸念は無い。もうひとえに増しな仕事が所望だから大学生へ取り組む、とまあそういう程度の認識にしか解釈が出来ない。誰しもみな口では切り出さないことだが、人間は悉く平等なのか?平等なのだろう。そうして平等だと肯んずる者というのは善人という性格をしている。しかし性格の一さいは表徴を示す場が常に先んじており、如何様に内実が善人なのであれ当該の場に到る文脈がなければ何者とも付かぬのである。認識論は措くとして話を戻すと、さて大学生という不憫な属性なのは実家との折衝に面倒だろう。寡聞にしてわが経験に親と懇意にしている大学生を知らない。所で寡聞なのは真に迫ったことだ。てのも措くとして大学生を詳しく言うと、つまり前提として大学生は人生で一ばん楽しい時期みたいに評される。実母の評したことだ。私は嘗てこれを思い出して鬱憤にならない経験が無い。さて読者は多少親という隣人に懐疑的になった経験くらいあるだろうから、ちょっと私にも思い遣ってみて欲しいのだが、これは危険だと勘づいて当然のことで、実に認識が甘い。そいつを大学生にする張本人の見解がそれなのは余りに甘い。私は怖気がさして吐気じみてくる。大学生になったから得た批判的な視坐ではあるが、どうも親という他者へも品評くらい試みた方がいい。現在でも大人だとは自己を断ぜずに措いてしまうのは、私としてはあり得ない。その為に却って大人らしくない振る舞いに敢えて出る。それは私は大人だと自ら宣言することである。

 さっき書いた増しな仕事という一語は、客観的に見るに二通りに解釈が出来そうだ。

 一つは大卒後の仕事。もう一つは大学生自体。確かに後者で言えば当人が大学生で居ることは、当人に楽しむ意志のありげな気味がする。私のような無欲な人間には却って、世に迷惑な通念が入り込む気味に見える。実際私は欲が有って匿名者など娯楽にし、現に斯くの如くいま堪能中の現行なわけじゃない。扨て面白がる手合が居れば一しょにこの自己を、細密に深掘りして見たいものだが、実にいつからか欲が有っても時間と金銭の費やされるばかりの苦痛を存ずる。ところでこの二者なら前者は変な話だ。匿名者など取り組めば時間が排せられて見える。私には見えない為にいま集注する。

 大学生は得る所に猶予がある。持論を言って置こう。正直なところはそんな半端な猶予は要らない。選択肢を与えられて猶予の期間に暮すのではない。未来が理想的に限定される為にこの期間を潰す努力を強いられているだけだ。

 七段落目の父方の祖父はその学科に就職が無いという。次いで出る段落に実母の軽弾みな妄言が暴露された。実に私は大学生という危険な地位へ投げ飛ばされた恰好なのだが、どういう因果なのか。

 いま声のでかい奴らを仮定しよう。そいつ等は古い。且つ多忙に追われている。そうして自己の生きる意味、だけでなくしかも人間の生きる意味くらいには延長して直観している。これを思い込みという。思い込みの一種だが、人生というものを断定している。声がでかいのは自己に権利を認める為で、多忙なのだからその分でかい声でものが言えるという論理だ。しかし端的に言ってでかい声は心持に害を為すから、まあ世に人の触れにくい箇所のことではあるが、実にでかい声というのは独り絶叫主の思想が露わになるばかりの現象と思い遣られよう。

 私は大学生の段ではあるが、つくづく楽な仕事が良い。しかし私も馬鹿ではないから、仕事に何か労する所くらい思う。人生には多忙でも楽にやれる事業がある。私のばあい?その話はまあ措く。

 つくづく声がでかいと言って、私は嫌うが、そいつ等へ私の傾向さえ覚える。私のモチーフの一種に、その声のでかさという表象は須らく害としてのみ使うべきなのだ。それだから私の傾向に関する。

 さて最後に一個の開陳をして終りにしよう。私は現前として生きる際、つまり電脳以外に躰の駆動を以て存在する際、やはり自己を匿名者と想い定めて内面を為す。世界は人の外面か?それとも内面か?どっちなのか訊けるほど懇意の仲の他者は居ない。序でに言って置くと私がそういう領域のことを独り、自己だけが領して含有し一さいの他者に似る手合を見ない現行なのだが、断然としてまた内面が生れた。外面と言えば繋累には辟易する。まず顔に臨む懸念があり次に身体上の問題が思い遣られる。近親相姦を存じている訳ではない。下宿に入られるとか飲食店へ連れられるとか、例の父方や母方へ出て会合が発生する折衝になる事態だ。

 現在というものは狂って感ずる所で、現に歴史が生きている。一さいの人間は頭に歴史を存じている。誰しも解釈が独自で人による分けられ方はあれども、だからそれが現在に狂って感ずる。狂っていないのは紙や液晶に載せてある歴史だけだ。いやはや繋累となると私の個人史を知る手合が現れるが、大学生に実に屈折した認識を持つと見えて危険である。永久遠ざけることを図っている。この手合を除けば私の口にする言語は可変的でない。それだから今云った歴史の件での影響は実は浅くなる。これが深いのが実家なわけだ。

 史伝、森鷗外渋江抽斎などは匿名者の書いた歴史だろう。あれは好みで存じた歴史を書いている。反対に私の現在では世に歴史へ断ずる解釈を実名の名義で表現する段がある。敢えてそこに生きていなければ行けない。原則的に自殺はない。しかし私の中身は全く匿名者なのだから、偶に口を衝いて匿名者が現れそうになる。てのはツイッターで言うようなことを、何故か現前に言ってしまうという様な沈痛な事態だ。いや楽しくもないことで、だからただ虚しい。