まあ年末になっている。個人の状況は措くとして、世界としては年末という状況を敢えて私に見せてくる。とまあそのような感が起るけれども、実際には世界は敢えてするのではない。
余り道家めいてくると詰らない。そこで初めに面白いことから言って置くと、久しく愛好している『花と水飴、最終電車』に収録されている「メリュー」という曲が好い。さっきも聞いていた。
個人として落ち着いた段、そういう僥倖があれば是非ともアニメとコミックに浸るだけの生活がしてみたいものだ。しかし現実として将来が甚だ長いことになっている。何が気に入らなくて断然不都合なのかと言えば、これで定めて遊び方を忘れるだろうことが死ぬほど問題になっている。
今回は特段の主題を設けていない。それと最近、頗る分ってきたことには根拠は不十分であるが、この主題という概念は或る種の文章には全く設定する必要が無い。読者がどういう心持でいま居るのか私は把握せずに居るが、これはまあ敢えて勧奨する程の事項ではない。だから無責任な持論を言う形にはなるが、兎角私が悦ばしく感ずる文章に絶対の主題というものは設定されていない。
ちょっと行を空けてみるか。さて前までの章段では論点になりそうな要素が、私の見るところ結構ある。しかし厳密に言うほど今、積極性があるかと言えば全然ない。そこでまあ三つにして置こう。
とりあえず一つ目から開陳しよう。まず音楽がある。二つ目は将来に定めて忘れるだろう所の「遊び方」で、三つめは「主題」の件。
まあこれで一個ずつ語って行けば随筆が一回分できる。旨いことになった。にも拘わらず私はちょっと逸脱させて置く。それはどうもさっき云った「読者がどういう心持でいま居るのか」不明であるとしたこと、何か引っ掛かるので。
思うにいずれ科学技術によって克服されそうな萌しがある。これはあるいは杞憂で、しかも杞憂の内実と言えばすなわち、寧ろ他者が何を考えているか把握できた方が明らかに楽なのだから、そもそも私の認識が倒錯しているのだろう。とまあ少しそんな馬鹿げた瑣末なことを意識に上した。
なるほど瑣末な気づきだ。ところが憂えることは可であると思う。一つには私にこれを憂えることの出来る能力がある。且つは私はこれを憂えることを自己自身に許す。私は心理に頗る楽天性を欠く。
このように或るていど時間を使ったこと。字数を埋めて文章という表現を提示したこと。既にもうそういう生き方を体現してしまっている。私は他者の心持について現にいま引っ掛かっているのだ。
なかなか沈痛に感ずる。しかもこのことは、面白くない。
音楽。実はさっきからこれを書きながらYouTubeで流している。しかし文章という、後から手を加えることの出来るものを作りながら、いま併行している事象さえ語るというのは、何か勝手が好いとは言えない。
私が「メリュー」を挙げたのは結構よかった。裂空伝では頻繁に上すことではあるが、私は高校生一年の四月と五月は殆ど家に居て、甚だ感じ入った。詳しく言えば中学生三年の三月も範囲である。世に所謂名盤という評価を下すことが出来る訳で、最初に挙げた『花と水飴、最終電車』はその時期を想い起させる。
私はその時期のことを、いま「甚だ感じ入った」と記述したが、実際の情緒面では善悪をいずれも呑まされている。それだから世界の果てまで来たこの年末に於てさえ、私には印象的な記憶になっている。因みにこういう種の記憶は他にも結構ある。
とりあえずは「その時期」と呼んで置く。しかしこれは言語であるから、私が「その時期」と呼べる時期は幾つも出来ている。過去というものは収拾が付かない。
なるほど旨い過去があったものだ。旨くて良いのはその解釈の甲斐がある点、それからその説明の甲斐があるという点。今後の私は以上の気づきを所以として、成るべく過去の記憶のことを上さない心がけが適応かも知れない。それというのも何だか手に余る。
まあ私の個人的な面倒になっている。
別に言わなくても良いが、今年は夏にここの記事を十万字くらい書いた。そして全て削除した。幸いなことにデータは私が残してある。あれは今後、何に役だつか分らなくて、私をムシャクシャさせる。
それでその内容が問題なのだ。私の閲歴が結構披瀝してある。
いまどういう必要から打鍵して余分に労しているんだったか、ちょっと焦躁になってきた。そりゃ当り前だ。必要なんて無い。何か飾ったことを言うようだが、私の人生はそういう部分が結構ある。
ヤバイ系になっている。どうもいま作っているものは廃棄物に近いと見える。まあそんな事態は苦痛になるから、出来れば変えたいものだ。そこでとりあえず話を戻すと、夏に書いた記事のことだ。
文章自体はやはり廃棄物に近い。しかし内容としては私が思春期に何をやっていたか言ってある。ちょっと自ずと思い出される。
私はまずい語り口になっている。思い出されるのがその文章の内容であるか、私の頭の中にある記憶であるか、これでは読者が判じ難い。この説明もアウトだ。私の頭の中にある記憶とは何か、それはその文章の内容の記憶とも言えて、私がその文章で扱った過去の実体験の記憶とも取れないことはない。こういう訳で言葉の綾というものには、まあとんでもない面倒な手続きめいたのが発生する。
悉く凡そ文章を善くすることは誰にでも出来ることではない。こういう理解の覚醒は素晴らしい。いや旨くなった。
まあ元は音楽について言う積りだったのである。さっきから思いついたことをだらだらと延長せしめて馬鹿げてきて、何だか自殺ということが魅力的に映ってきている。読者よ対話しよう。いや出来ないから無理だしこれも馬鹿。てのは私が自殺と云ったのは私の自殺のことではない。読者がどう読むか私は分らない。
しかしまあこれ位は言って置きたい。小学生六年からだった気がするが、どうも毎年行事で合唱の伴奏を強いられていた。ピアノは保育園五歳だか頗る幼少期の頃から弾いていた。余分なことをしたもので、兎角馬鹿に自ら自己を追い詰めた感じしか継承されていない。私には自らやる音楽と単に楽に聞いて面白がるだけの音楽との二種を認識することが出来る。音楽という一語の両義性である。
序でにこの小学生六年という推定の意を補って置こう。どうも四年と五年から伴奏者が要されるイベントがあった記憶があるが、確か別のところに習い事で通っていた奴に、あのオーディションというのをやった際、私が選ばれなかったという筋であった。ここの覚えで何か引っ掛かる。傍から見ればまるで私が「やりたがっている」ようではないか。その関係ではちょっと突っ込んでくる手合も居た。やはり苛苛する。当時の話である。
あと六年で弾けた(?)のは何故だか言うとすれば、どうも子どもに伴奏をやらす曲の数が増えたので、なし崩し的に私に出番が来たんだったと取れるが、まあそんな瞭然とした言い方は出来ない。
夏の記事ではどれ位くわしく書いたんだったか、それも忘れた。
あと高校生三年の際、どうも行事があって合唱コンクールみたいに催すものがあった。クラスごとステージに立つはめになっていた。いや困ったな。この話は長くなってしまう。
まあ私はその際の伴奏をやる筈はなかったし、別の者が担当だった訳だが、どうも気持が悪い感触を伴った。自称進だった為にか行事はどれも光輝に虚しい嫌いがあった。どうしてこんな、たとえ中学生がやってもその意義に悩む筈の、詰らない形式が形骸化して保たせてあるか度し難いので。別に私の感想ではない。当時、最低限空気を読んで置くべく立てていた聞き耳に聞いた誰だかの言である。
いや何かまた両義性が出た。伴奏の担当者が居ると何か私を考えさせる。何か意識させる。それは中学生三年までの私の活動として、ずるずると続けていた伴奏の件を。且つは、どうしてこんな形骸化した行事があるか全く汲めない。そういう両義性である。
中学生。私は生れた時から中学生だった気がする。そして私は中学生の頃は管弦楽部だった。いろいろと記憶が甦ってきて、もう発狂しそうになる。やめろ、やめろ、こっちに来るな!
最初の方で「遊び方」と「主題」の論点が出してあった。しかしもう何かイヤになってきた。部屋も何か寒い。ぷるぷるする。
とりあえずいま、書いたものを全て見返してみた。どうも補足の要される所がある。高校生三年でのイベントだが、どうも文化祭とかいうものの紛いで、別の日には学校でもやる。合唱を披露するというのは学校の外へ行っていた。これが一年二年では行わずに仕舞ったのはコロナの為だったろう。そういう次第。
脈絡は無いがいまYouTubeから「君の知らない物語」が流れてきた。しゅぶに(今はハンドルネームが違う)は昔、かのNHKにようこそ!を想ってか「もどかしい世界の上で」より歌詞を引いてブログで自ら感動していた。私は何故かこのアニメは未だ見ていない。原作小説だけ読んである。ちょっと折角だし語って置くか。
NHKにようこそ!これは見ていないのに既に見てあるような錯覚が私にはある。所以がちょっと思いつく。まず私は小学生四年から六年のあいだの幾らか、毎週末近所のツタヤへ行き漫画を借りた。別に一人で子どもだけで行った訳ではない。その頃から俺はサブカルかオタクなんだという自己認識を持ってはいた。というのはどうも今から見ると意外だが、私には美少女が目あてでアニメとコミックに嵌るのは自己を逸しているという思い込みがあったのだ。そこでどうも私が借りたものはラブコメを含まず、且つは「男子高校生の日常」など女子はソフトになっている作品を好む傾向。それからドラゴボは甚だ旨く読めたが、どうも美少女目あてで読む感じとは違う感触だったのが快かった。それだからかドラゴボはアニメさえDVDを借りて家で見ていた。まあ健全だったのもあろう。あるいはいつだかに従兄の家へ遊びに出た際、従兄が見ているというドラゴボのまだ「ギャグ」主体だった頃のものをアニメで見、それが気に入って続きを自身の家でも見るようになったのかも知れない。問題はTVが居間にあったことだ。私は親の眼にビビる性質だった。親とかは家事とかやっていて、素っ頓狂なアニメの声?何か気まずいというか具合が好くない。アニメは結構環境が噛んでくる。私は自己認識はオタクだったので、オタクらしくなければヤバイという意識があった。私は自室で3DSとかで「ゆっくり実況」を見た。東方二次創作を見た。しかしどうもアニメは何を見れば良いか解し兼ねる感じがあった。私は傲慢になっていき、何か外圧が多い人生だから実際にはもっと知識や経験がある筈だと思い込むようになっていった。私の挙動や言語は頗る狂い、且つは固よりちょっと異常者めいた面によって小中高徹頭徹尾、知られていくこととなる。
それでなんでNHKにようこそ!をもう見た気になっているのかと言えば、何か説くところが足りていない、明らかに。
けいおん!はその『花と水飴、最終電車』と同じ時期に初めて見た。しかし実は初めて見た感じはしなかった。さっきも云った従兄というのが結構でかい。こいつは幼少期から私と分たれていない感じで、何か私の一部みたいになっており、小学生のもういつだか記憶に無いが彼がアニメに嵌り出した頃、私は彼の見ているというものがどうも私も同様に見ているものの如く認識されるという、わけのわからない状態になっていた。けいおん!は彼が当時、見ていたらしいアニメの一つである。
別に従兄に限らない。どうもtitleあるいは作品というものは、自他境界を揺るがせる感じがある。私の人生は友だちが居たり居なかったりするのだが、小学生四年の夏休みは毎日特定の者らと会っていて、私たちは全員で三人だった。しかし私はどうもこの構成員の中の私である際、いつもの私とは違う。あるいは三人に加えて遊ぶ人が居る際、私はその中の誰かの身になって憑依していることがある。
まあ遊びとは言うが、私は敢えて遊びではないと誇張して置こう。ああいう時代はそう低いものとして言えるものではない。集団に属している際というのは特別なのだ。何か共有している。同じものを共有しているということが、われわれは同じだということになる。
さてそろそろ終りたい。まあ旨い旨い。例えば文学というものがある。存在するは書籍で、内容は無限になっている。詩も小説も言えるとしよう。しかし無限なのに読めるというのは矛盾しているではないか。私は文学の定義を間違えた。
ここから文学とは何かみたいなことが始まる。哲学的になってくる。私はイヤだ。そんな問いは必要ない。
そこでサブカルへ視線を移す。頗る楽になっている。まあ内容に対して意味を推し量ることはある。媒体と言ってよければアニメとコミックが分り易く存在する。私はもっと楽だからYouTubeで流す程度になっている。今朝は初音ミクだった。初めて聞いたのだが「モニタリング」(DECO*27)が気に入った。新曲が好かったのだ。
こと鑑賞に於ては楽であれば楽であるほど適応である。文学というものが存在するとしよう。それはこういう楽な鑑賞には絶対に適わない。あるいは或る人は鑑賞というものは、そんな楽な形では不可であると見なすことだろう。
もう終りだ。今回は書くことが結構苦しかった。次も苦しいだろう。思いついたから言って置くが、この「鑑賞」の能力という問題。これは「文化資本」という社会学の用語に関係がありそうだ。