(10)あるいはYouTubeへの批評

 さっき横臥して携帯で「夕暮れツイッター」を流し且つ鑑賞し、私の脳内にて些か述懐が起った。自然とである。

 細かい言葉の細密な組み立てには、全然辟易する。そこで説明ということは須らく控えるべきことと悟ることが出来る。

 よって以下に続ける随筆を私は説明としない。

 

僕は初音ミクとキスをした』という。そのCDのジャケットを見たのはいつが初めてであったか、ちょっと記憶から推測してみるとなかなか容易ではなく、何か昔の世界というものはここに踏み込むことに抵抗を覚えさせる要素がある。面倒に感じさせてくる。しかし敢えて良いとしよう。私は小4から中1までのいつだかに、近所のTSUTAYAにてそのCDジャケットを初めて目にした。

 私は店内で何をしていたか。当時は嘗て今のような自由な思想というものを持たずに居た。それだから怨恨ある両親とも同じ車内や休日を共にし、そうしてそのうちにレンタルCD屋へも伴われる子どもとなったというわけ。一個変ったことを開陳しよう。まず小4では夏休みはモンスターハンター4が最重要で、それというのも或る三人組を成して毎日やっていたtitleだったりする。にも拘わらず何かマインクラフトということが始まった。ほか二人もまたこのtitleについては関知していた。ところが今になって思えば永久モンスターハンターということを目的とした集いだったならば、恐らくあの場は終ることが無かっただろうと看ることが出来る。分る筈もない読者の為に言って置くが、この回想は既に私を感動させている。

 いきなり別の話になった訳ではない。まず先刻より言っている、私が親に連れられて出たTSUTAYA店内のことだが、どうもそこで私は変ったことを考えていた。元来知っているVOCALOIDであるが、やはりオタクとしては「甚だしくは解せず」では満足が行かないというもの。自身オタクであると信ずるのである。

 大事なのは「現物」だ。未だオタクらしきものの現物を所有せず、何か本然の自己に悖る感じがした。音楽はYouTubeで聴ける。媒体としては3DSがある。又のちに得たPS vitaはまずマインクラフトがやりたくて親に購わせたゲーム機であるが、幾らか時間を経て所謂「更新」ないしは「アップデート」の最新なのはPC版であることが分った。そこでまた親にノートパソコンを購わせた。因みにこれらは家庭内ではサンタの贈り物だという設定になっている。

 決定的なのはPCで、これはCDの内容を写すことが出来る。幼い私は面白く連想した。そんならこれで、貸し出しのものを記録し且つ保存することを可とする。そうして実質的には所有したことになる。マイクラをやりながらそいつを流して聴くプレイも好ましい。

 実際にそのノーパソで聴けたのもまあよかった。しかし又のちのこと、私はcompact disk recordableを活用するようになる。大もとを辿れば車のaudioで親がやっていたことの真似、しかし当時は私には革新的なことを行う心持さえある、何か自身originalであると思う行為であった。時代は直ぐに下って全部スマホで行ける設備が整ってくる。そもそも現物とは一たいなんだったのか。近い記憶に親を想い起してみればすなわち、車内にもはや現物のCD-Rというものの姿は見えない。あれは実用上は既にあの世に逝ってしまった。

 高1のことだいぶこの世を舐め腐り、親としては勉強づくえとして設けてやった台の上に私はaudioを重ねて設置した。固より自室の話、何を他者に制せらるる勝手があるかと逆に切れて、親による実際の容喙が来るより前から、私の想像にはやがて私もそういう取り遣りを演ずることだろうというvisionさえ先に作ってあった。

 ただaudioそのものは中3の時点で部屋に存在していた。受験生として神経質になっていた期間も何故にかCD-Rの生成は行われており、頗る現物の所有が増えていた。いま思い出したが中3と言えば冬が無視しがたい時期で、私の管弦楽部は11月の末ごろまで大会をやっていたから、これを終えてそのまま冬に入ったのだ。そうして私のやったことは駅前徘徊、そこにあったBOOKOFFへの頻繁な往来である。ただどうも足らぬのはその趣味への費用であった。

 本格的に受験生であるということになって、何か自身属性を寧ろ失った気持にさせられた。心底不明なのはどれ位の努力が自己に求められているのかということで、まあ何処かで見覚えてある感のある筋のストーリーを引き合いとしてみよう。或る懇意の男女が学校の成績では差があるが、出来る方が出来ない方に合せて結果低い方の志望校に一致し共に通うこととなり、本来はもっと高くすることの可であった方は断然として喜んでいるという意外な話。

 何が言いたいか?まあそれは分って貰えるはず。

 一おう加えて置くと私には絶対の愛を分ち合う異性とては、高に進学する前に存在していたわけではない。これはどうも断って置くべき感じがあるだろう。固より私は一さいの他者へ警戒がある。須らく敵として疑うべきことが基本、概ね原則としてあること。

 先刻伝えた敢えて偏差値のない学校へ進学する例でもそうだが、やはりこういう甘美に感ずることは概ね小中高のうち中高へ、殆ど極端にしてイメージが集注してしまう。あれは高に次いで大へ出るという段が語り得ないことになっている。断然として行ける語りは現に虚構性の強い期間でなければ不可、実にあの中高という変った期間は圧倒的な虚構性の強さを纏っている。一つにはまず社会人が出身の大は気にして中高は深くは存ぜぬことの事情、構造的である。

 いきなりだが私は、もう十分書いただろ、とまあそんな気を起してきている。しかし一おうそんなことでは困るので、旨い区切りを考えるとしよう。とりあえずみきとPの事項までは書き終える。

 彼のそのアルバムだが、何か初めてTSUTAYAで借りた際はジャケットを見た親爺が突っ込んできて、結局以後殆ど聴かずに仕舞った。親爺を甚だいやがった為で、いま思うとああいうことは隠れてやるべきだった。いわば趣味さえ全体的に公然と、特にコミックを借りる際でも親の存在を介した頃のこと。何やら粘着していた。

 まあ下宿に来てからは旨いことだ。現物に詳しくないことは依然としたことであるが、兎角誰かの管理下でない娯楽を得てある。私はそこまで行かなければ人生の個人の楽しみというものは、あり得ないと信ずる偏向を有する者である。

僕は初音ミクとキスをした』という。素晴らしいtitleではないか。このアルバムの曲は概ね神懸っている。頗る好みに当る。

 人生上いつの時期から聴いているか言うんだった。高3の梅雨から心に抵抗なく続けて聴いている。

 まあ実際の所は分らない。もっと前から曲を聴くことは可能であった。それが実際に於てこれだけ遅れたのは何か変ったことだ。どうしてかと言えばまず、その音楽を頭に入れるより前からその音楽の印象というものが、私に認識することの出来るものだったことがここに関係する。聴き始めるにも人はタイミングを選ぶことが出来る。事前にまずVOCALOIDは曲を幾らか知ってある。トーマ・ハチは長く聴いてあった。それでみきとPと言えば所謂代表曲があって先に記憶してある。

 ここまで書いて私はいきなり思い出した。そもそも高1から私は親も入っていたsub scriptionによって、携帯で音楽を聴くという習慣が出来ていた。高3の梅雨は、しぐれういのアルバムを何故か聴き出して、そこに千石撫子の曲やみきとPの「夕立のりぼん」のあることを発見した。

 それから研究者の所謂原典を参照するが如く元の曲に到った。実に容易なことであった。指先だけで行ける。こういう自身現代のものを弄ぶ際の感触というものは重要で、まあ古典籍のたぐいでは断然として無理なことだ。さて私はそうしてあのアルバムに行った。

 もう面倒になってきたが、偶然千石撫子が出たから序でに物語シリーズについて少し加えて置く。まあ高2の1月、冬休みのこと私はそれを初めて観はじめた。頗る感じた。問題はAmazonPrimeにない回を見つけたことで、いつこれを追ったか。春休みの3月。

 DVDを借りに行ったのはあのTSUTAYAであった。親は居ずに独り行けたことが今は愉快、人生で個人的には甚だ育ったことを以て可とした事柄としよう。

 まだ続く。これは自慢であるが、まあ高では私は時間が余って仕方なかった。高1は留年しかけた。高2は4月に既にシフトの無くなっていたバイトを辞することを伝えて却って緩い塾を始めた。高3は受験生であった。どうも姓名の評判が微妙に悪く聞えていた。

 今度の春は、いよわを聴き出して一年になる。頗る旨い。

 高2の3月だったか修学旅行に行った。

 最後に高3の梅雨について加えておくか。あの時期はもう万感が極まっていた。そもそも小中高は小が全て苦しく、辛うじて学外に居る際は何らかの遊びが出来たくらい、中でいろいろあり過ぎて高に到って完全に発狂する。もう何も加えたくない。

 私は自意識が強すぎて常に余分なことをやってしまう。その自意識を強めるのは言葉である。常に何か言いたくなっている。

 もう良いか。

 高3の梅雨はちょっと私には衝撃的なことが起った。そのとき一つ前の席に居た美少女の女子が私に笑い掛けるという、私としては寧ろ自殺したくなるようなバグり現象を知覚したのである。

 補足は幾らか要することだろう。所以はまず英語の授業で、何か教室内には拒んでやらない生徒もあったが、隣とか近い席の者と会話すべき段が設定されるということ。

 リアルにしよう。私は六列ある席のうち右から三番目の列の一番後ろの席に座っていた。会話が全て隣どうしでないのは休みの者などあってそうなるのである。

 締め括るとしよう。人間は他者に認識されなくてはならない。その他者は異性であるということがある。しかも人生というものも概ね他者に認識されることの累積で、組み合し且つ意味の有機的な図を作る形で作成される。しかしこれを看るのは自己ひとり、全然孤独を強いられる。そこで私は私の好むところに阿る。

 或る集団では村八分になっても当然の言である。

 しかし結局は私は私の閲歴を語ってしまった。何かいやな感じがする。その高3の梅雨の女は私を殆ど侵蝕している。

 あ、そうだ。しかもこういう女は私の人生には複数存在する。因みに母親はもともと私が母親の躰の一部だったとか、そういう詭弁などによっては実に関係がある。ところが全然違う。

 私は他者に関して珍しい認識を可とする人である。自己自身の有する豊かな感性世界がそれを可とする。

 何か腹が減っている気がする。本当だ。時計を確かめると日づけが替るところであった。いまWordで4枚目が終る。ちょうど良いからそこまでは書くということ。

 今後の展望だが、もう実体験は創作に利用したくない。小説にするとしてやはり別が良い。すばらしい!