裂空伝

文事の鍵盤

【短篇小説?】私たちの、破滅仲間

 私は一人暮らし四年目で、二十二歳だ。肩書きは大学の文科に属する。

 最初に言っておくが、この話は虚構である。

 朝起きると九時になっていた。意識が半ば夢を呈している。自分が現実を生きぬく想像もできない。

 部屋の中で、私のベッドに対して野獣先輩が立っている。黒い外套を着ている。彼を見て、私はわが身を起こした。また野獣先輩かと私は思った。そして言った。

「俺はまだねぼけています。ゆうべ眠る前は、どうも重要なことを何か考えていたらしいんだが」

「一人でいたってしょうがないぜ。外へ出よう」野獣は言った。「それから」

「俺のことは野獣と呼ぶな。田所と呼べ」

 田所は安定した姿勢と言語とを有する男であった。ガタイがよく、落ち着いており、人の心をおだやかにするような静けさを発していた。まるで何事も飄飄としてこなすような成熟した人物に見えた。

 私たちは部屋を出て、晴れた秋の道を歩いた。民家が並んでいた。進んで行くと広い公園が有った。森をふくんでおり、川が流れている。詩人の王維は別荘の庭にゆたかな自然を持ち、己のこころを休ませる際にはこれを愛でて過ごしたそうであるが、いま私たちの前にある自然はただ私たちにふさわしいだけである。舗装された道を私たちは進んだ。並木がその道の上に木漏れ日を作っていた。

 ところで田所はなぜ朝、私の部屋に居たのだろう?私を犯しに?そんなはずはない。彼は演じることを業としている。今日は仕事の日ではあるまい。職業柄、彼は同性の男を犯すことを演じることがある。しかし、今日は違う。因みに私の側でも今日は用事が無い。それだから朝は遅く、九時に覚醒した。

 今朝は私の部屋の鍵があけてあったとみえる。それで田所が私を呼びにやってきてくれるとは、いよわの「ゆるやかな化膿」に「悪趣味すぎるサプライズ」という通り、私を甚だ驚かせることではあるが、実際は私は殆ど驚いていない。丁度誰か現れるころだろうと予て思っていたのだ。だから意外ではなかったし、現れる人物が誰かといえば、恐らくは田所あたりだろうと想像していたのである。二十二歳にもなると、大抵のことは予め分かる。子どもとは違う。頭が働きすぎるといえばそうなのだが。

 道を進みながら私たちは喋った。田所は言った。

「まだくすぶっているのか?お前の仲間たちは充実した生活をおくっているぜ」

「ええ。くすぶっています。どうも生まれた時から何かくすぶっていて、全然どこから手をつけるべきか分からぬ状態でいます。それにしても」私は疑った。「なぜ私の仲間のようすをご存知なのですか?」

「以前お前が俺に話した通りじゃないか」

「ああ。そうかもしれませんね」私は殆ど釈然とした。

「お前の生きていく暮らしは海賊王になるとか、クリリンが何回も死ぬとか、月光条例の主人公みたいに己の生まれる前にこしらえた因果を背負って乗り越えていくわけではない。ただのお前一人で、お前一人の人生を決着つけるだけだ。しかし、理屈は要らない。お前は大人になるだけでいい」

 彼はよく漫画の内容を知っている。私は言った。

「とっくに大人ですがね」

「俺と居る内はね」

 私は少し笑った。彼の言う通りである。こうして喋っていて、彼のような優しい人物に接している際は、私は自分が幼稚になる懸念を生ぜずにすむ。彼の優しさは気づかいとか、あいそのよさとか、いつも難しい取り組みに関して助けてくれるとか、そういう頼りがいのあるものとは種類が違う。しかも、私を解決しようとしてくれるわけでもない。いうなれば言葉にしがたい温かい存在感である。

 彼は言った。

「お前は虚構に思いを馳せて楽しんでいる。だが、現実ではお前を待っている奴らが居るんだぜ」

 彼の言う虚構とは、彼の先刻挙げた漫画の類であろう。私は確かに、昔よんだ漫画のストーリーや登場人物のことを考えて自適の念に到り、一人で悦にひたることがひんぱんに有る。よんだのは十歳や十一歳のころで、甚だ時間の懸隔があるが、当時は本当に面白くよんでいたのだ。それだから長いあいだ頭に残る。しかし、彼の言う虚構の意味は、もとの漫画のコンテンツを超えて存在する。私は言った。

「俺は人と接していても、共感とか互いに思いやるとか、助け合うということをする意志が欠落している。最悪なことです。子どものころからこんな調子です。一人っ子であるとか、小学校で甚だいじめられていたとか、他者との接点を得ざるに到るゆえんはいろいろ存していました。しかも接点を得ざるだけではなく、人にしたしくなろうとする意志も、実際にそれを為すための能力も有しない身になりました。田所さん。あなたは俺を指して自分事の自覚が足りないと感じるでしょうね?」

「だから俺が喋ってやる必要があるんだろうがよ。お前は錯覚している。お前はそんな調子でも結局はそこそこ楽しく生きて行ける人間だ。本当は俺などがお前から言葉をひきだしてやる必要もない」

 私はいつでも奇怪なことを考えてしまう癖がある。

 小学生のころにゲームばかりやっていて、動画ばかり見ていた私は、頭が殆ど向こう側のことでいっぱいになってしまった。向こう側とは、遊びの世界とも言えるし、広義の虚構でもある。それだから、そのあとの人生でどこへ行って誰といても、目の前の人のことなどどうでもよい。自分の好きな記憶を連想させるようなものしか、私の興味や関心を生じさせることがない。

 それにしても、こうした問題は人間の脳の有する仕組みから来ていると思う。脳はそれほど多くの種類のことを楽しむことはできない。既に楽しみ方を覚えてあることしか楽しむことができない。私はこれを私の脳に限ったことではないだろうかと想像した。そうして、田所にこのことを言った。

「俺は田所さんと喋っていて楽しいですよ」

「俺はつまらない」

「すいませんね」

「現実では、俺のような優しい奴はなかなか居ないんだぜ」

「俺は頭の中が殆ど虚構ですね。妄想と仕事との違いもあいまいになっているみたいだ」

「お前のまわりには今どんな奴らがいる?あるいは、今後どんな奴らと関わっていく?」

「ええ。結構いろんな奴らを記憶しています。来年の四月から先の予定が決まっていませんから、そろそろ決めるところです。決めないと俺がどんな奴らと場を同じくするかも分かりますまい。最も問題と感じるのは、むしろ今と今までとに伴うことです。つまり、すべてを無視してきたんです」

 胃の「千年生きてる」に「すべてを無視した」という詩がある。これは超越を歌っている。

 すべてを無視してきた私は、大学で見た人や聞いた人に対して、その中身や情報をさぐることなく過ってきた。そのため、四年間で相手の存在を知っているにもかかわらず、全然何者だか感じ取ることのできていない人物ばかりである。ただこの人たちの社会上の所属だけをおさえてある。

 私は少時より今にかけて、殆どずっとこうして人を知らぬ思考に甘んじてきた。

 私は田所に言った。

「あなたは私を助けますまい」

「当たり前だろう?」

 公園の道が絶えて、石をめぐらした垣のあけてある出入り口に私たちは到った。私は言った。

「また会えますかね?」

「俺は淫夢ファミリー筆頭野獣先輩だぜ?」

 私たちはここで袂を分かった。

 

 或る日、私は大学のたてものの中や囲いの内を歩き回っていた。時刻は昼から夕方に及んだ。

 何日か前に田所と歩いた公園は、私のアパートから見ると大学とは逆の方向にある。

 私の生活は考えてみれば甚ださびしいもので、バイト先や大学へ往来する以外に何事もない。しかも大学では用事が無い。来年の春の卒業を待つのみである。車校を言い忘れていた。思えば一年生の時にでも免許を取っておけばよかった。私は大学に友人が居ない。この約四年の間に限らない。私の人生はしばらく友人が居ない。そうして呼び名のよく分からぬ、その本質から言えば、私といかなる関係にあるか定めがたい人びとがいるばかりである。そういう人たちの中に、私の愛する人もいるのだが。

 私は屋内で自習者むけのイスに腰かけ、テーブルに牛乳を置いた。牛乳は栄養がある。それからスマホを出して、私の考えていることをいろいろと検索した。エーアイがさまざまに回答した。

 時間がどんどんと経過していった。例によってむだな時間であった。こうした過ごし方は私にとってよくあるものである。昔はエックスのアカウントを持ち、自分から語を発信さえしていたが、何箇月か前にやめてアカウントを消した。今はブログをかきつづけている。たぶんエックス時代に私を知った者が、このブログ、裂空伝を少しは見ていると私は考える。私たちはエックス時代から、積極的の交流をせずにしまい、やはり呼び名のよく分からぬ関係にある。しかし、私はブログをやめるわけにいかない。なぜだか分からない。何か困る。私はこんなことも分からないのかと感じる。

 あたりが暗くなってから帰宅した。自分で信じることのむずかしい事実であるが、やはり私は時間をむだにして一日を終えたのだ。この日は全休であった。一年生の時から私はこういう日がよくある。

 

 何かを語ろうという際、それは他者との付き合いの記録であれば私は快い。尤も、私の感覚はいささか正常でない。或る知人がかつて、知り合いとの交流を創作のネタにする奴はつまらない奴だと私に教えた。その時、私は彼の気持ちを解した。つまり、仲間と居るということはその人たちのことを名前で呼ぶということである。現実に場を同じくすることは、後から記憶の内にのみ再現される。深く重い内省をくわえて叙述するとつまらなくなる。だから、創作はフィクションでなくてはならない。

 私は仲間と呼んでいるが、つまりその人たちのことを名前で呼ぶことはない。ブログでかぎりなく一方的に自分のことだけを語っている私は、同時に直で現実の話をすることができずにいる。孟浩然の春暁に落花を惜しむ情を覚えるごとく、私は過去の仲間のことが惜しいから伝説にしたいと感じる。そうしてこれを書いて記録したい気持ちがある。しかし、これは無意味である。記録したい気持ちは偽りではない。また、正常でない。私がやりたいのは、つまり私の頭が一体どうなっているのか、現在の状態を確かめたいのである。いや。これは多少いりくんだことである。

 少時より一貫して私は言い訳に逃げる気味がある。しかも最近はエーアイによってさまざまな疑問に答えが返ってくるが、結局どういう解が返ってきてもやはり何か裏を私は感じる。どうも私に関係する他者に対して、常に反論か冗句を用意しておくべき必要を感じている。少時はそれが周りの者と私とを同じ存在と認識されたくない心持ちから出ていた。確かに自身を特別のものと信じていた時期がかつてあったのだ。私は暗いプライドを有していた。この潜在する意識は少時より今に到るまでずっと続いている。私はものごとを複雑に解釈して捉えてしまう。その背景には、小学生のころの学級崩壊がある。明らかに授業が成立していない毎日を、なぜか渡っていけて精神も病まぬ自身は何か特別であると思わずにはいられず、同時に一人っ子であるところの私は親の虚栄心によって家でまつりあげられていた。この親が上がり下がりの激しい親で、或る時は子どもの落ち着きやおとなしさをほめそやすが、時として私を罵倒することがあった。私はやはりこれをいかに解釈するか迷って過ごしていた。

 少時に私が苦しむと、頭の中ではこれをいかに倒そうかということを想像する習いであった。小学校では毎週ツタヤで漫画を借りていたし、恐らくはいつか上手に漫画がかけて苦しみをむしろ面白いストーリーに表すに到るだろうと考えていた。これ以外にもいろいろ想像した。また少時にかぎらずとも、私は自分の中身を一言で説明しつくすことができない。文にのぼしたり口で言ったりする際に忘れていることもある。何より、私は自分が何を言っても毎回どこか誤りを来しているはずだと考えており、つまりこれが言い訳したがる性質である。自分じしんについてさえ、常時疑念がある。確信が持てない。

 甚だ苦しんでいて、現在へ到ってもなお持続している。しかもその本当の正体はいまだによく分かっていない。私は考え続けるはめになった。少時は仕方なく強いられていた。現在は習慣である。

 過去の出来事を私は経験している。そのどれもが名前のない現象であった。こうして不定であるところの記憶に私は耐えられない。自分で自分をおかしいと感じるが、私は人づきあいというものがだめであるから、一人でいて楽しむことのできる妄想を愛している。妄想の中では、つまり私の考え、創作のような作為でさまざまに現実を解釈してあるから、この解釈によって苦しみや不幸などの不全というものが打ち消してある。私はフィクションを現実から出たものと考えていて、フィクションにあっては、現実における明らかな悲しみを善くねじまげることができると信じているわけである。

 これは部活で音楽をやることと似ている。それも練習が過酷でなくてはならない。中学のころ、オーケストラ部に所属していた時期は音楽をこの芸術と考えていた。しかも楽団として複数のメンバーでやるところに意義がある。漫画やゲームは一人でも享受できる。私が考えるに、演奏ということは演奏一つにあっては全員が団結することであった。当時、会話やふるまいは措いて演奏の方に人生の本質があるように私は感じていた。これは同級の女子に恋をしてから終わった。彼女は私に対して好意をむけているそぶりをしきりに見せてきたし、何か怪しくも感じたが、とかく音楽の活動が私の中で軽くなるゆえんを為したわけである。私は高校生になってから音楽をやめて、わけのわからない気持ちで新たに生活をはじめたのだ。十五歳のころの女に関しては諦めた。この心持ちはこの時まで体験したことがなかった。しかし、中学を出たあとは時として似たような別れが人生に生じるから、そのたびに同じ心持ちの再現をこうむっている。別れでなくても、彼女に関して全く成就しなかったことを想起させるような、さまざまな悲しい出来事が私の身には起こった。これはすべてを述べない。ただすべて悲しかった。

 思春期とは、或る感情を私の中で固定する時期であった。固定された感情は若い内は何度もくりかえされる。そうして私を強いる。この悲しみに到る種の状況を避けよ。自身にとって喜びある道を選べ。そんな命令を本能からこうむる形である。私は思春期にあって人づきあいに関して、甚だ愛するとともに甚だ憎むという矛盾した心持ちを学んでしまった。もしかしたら死ぬまで治らぬかもしれない。

 中学のころ、或る一人の同級の女子は私に好意をしめしておきながら、私が彼女に恋したと知ると、小刻みに私を愛したり憎んだりしはじめたのである。私の側は私が理屈に偏した頭であるから、なぜ自分のふるまいに問題があるかつぶさに内省してはいたが、どう考えても向こうから始めた話を私を精神を崩壊せしむる形で終わらせることは、彼女を憎みかえすゆえんに他ならなかった。私は当時、彼女のことばかりを考え、常にスマホを見て彼女の情報を集めていた。彼女はツイッターとかをやっていた。

 なお、彼女に関係する人物に対していろいろの問いや試しを掛け、彼女の情報を集めた。私は一般の会話やコミュニケーションは下手だが、空気から自分が人にどう思われているかを察する能力を有していた。結果スマホをめちゃくちゃ見るようになっていた。私は勉強の成績が落ちた。

 このようにして、私が時間をむだにすることは少時より続く習いである。つまりは一人で考えごとをしている時間が長いわけである。甚だものうい。報酬は無い。今に到るまでやめられずにいる。

 

 私は大学のたてものの中にいて、イスにかけながらガラスばりの向こうの外を見ていた。講義と講義との間の時間には、ものすごい数の学生がたてものからたてものへと移動していく。これだけ人間が居るようすはふしぎである。このことについて少し語っておく。

 そもそも日本にはものすごい数の人間が生きている。私はこの内の誰としたしくなるのか分からない。したしくした方がいい人物が誰であるか分からない。生きていれば自然とまた仲間ができるだけだろうと思う。なお、私は親族を憎んでいる。だいたい充実した人生というのは、まずは制度の上でも付き合いの良好であるべき親とかとしたしくするところに源をみとめてよく、これは私が中学生のころまではかなり頑張ってつとめていたことである。当時内心では親のいやしいところに気づくたびにイライラしていたし、そもそも実家にしばらくは住まなくてはならない状況など甚だ不快ではあったのだが。

 そもそも制度では、人間がどのように過ごすことを前提としているのだろうか?むかし、丸山真男の『日本の思想』という本をよんだ際、制度は必ず背景となる思想を存していると書いてあった。しかし、私の知る制度は、小学校から大学まで十六年という長い教育を受けることのみである。この教育というのは、つまりイスに掛けてじっとしていられる能力をきたえる点に意義がある。それだけ出来るようになってしまえば、あとは何を身につけるのか職業しだいである気がする。私がおかしく感じるのは、学校へ通うということに、明らかに勉強を知識を得ること以外のさまざまなものが伴うことである。

 大学はそこへ行くと甚だ危ない場所である。特に私の場合、文科である。ここで学ぶということは、つまりは古い時代や別の国の持つ文化とか民俗とかを知ることをふくんでいる。中でも、ジェンダー研究について講じる講義はちょっと衝撃を有していた。曰く人のあるところ必ず性差による何らかの問題を来しているというのである。案じるに、現代人は頭の中に情報過多を来していて、何が常識か混乱している内に、本来当たり前に定めてあるはずのジェンダーを疑うから衝撃を禁じ得ないのだと思う。

 学生はしかし、こうして講義に価値観のひっくり返る話を聞いていても、どうも普通に人間の人格をやっている。私の頭に関しては、高校生のころ既に無常のごときものに覚醒してはいて、大学の講義は実際学問の名の下に相対の価値観ということを人が認めている事実を知るファクターにすぎなかったが、私の場合、単一の価値観が常に信じられないという論理を認むるのであれば、他者との尋常の付き合いさえおのずから消滅するはずであるとの想像をする。だから大学の学生らを見ていて怪しむ。この人たちは、なぜだか分からないが、友だちか何かになって仲間をここで新たに作り、しかも楽しんで遊びに出ることも可能としている。何が起きているのか私には分からない。

 ここへ来てからというもの、私は己の思考を深めていた。ネットに大量の文章を上げては削除をし、一年生の二月にバイトを開始した。必修を取った。エックスを見ていた。いよわを聴いていた。そうして、殆ど常に一人でいた。さびしかった。しかし、こうなるのは当たり前だと考えていた。

 それにしても、私は現前する他者について多くを述べてしまった。

 

 田所について少し述べておくべきであろう。

 彼はいびつな存在である。中学時代、或る者は彼の伝説について私と共有した時、私たちの関係をしたしくすることに成功したものである。淫夢は限られた者だけがネットによって知り、現前でこれを共有することのできる者をみつけた時、私たちは歓喜する。これがコンテンツを介した友情である。

 では、淫夢が同性愛の性愛を映像の実写に映す点をどう解釈すればよいのだろうか?

 私は中学時代、淫夢の話のできる仲間を得た。彼らは共にもりあがり、仲間となった。では、淫夢を共有しえない手合いとは仲間になれないのだろうか?むずかしい問題だが、私はそうであると思う。

 したがって、田所は複雑な存在である。淫夢の話は世間では普通・健全のものとされていない。

 

 或る日、バイトから帰った。午後十時を回っていた。

 エックスで、ツァッキという人の投稿を見た。彼は私が高校生のころから追っている人物で、七歳くらい年上だが、彼の影響で私は文芸や哲学に傾倒するようになった。高校時代において、固より大学には行く予定であったが、文学部へ進学すれば少しは楽しめるかもしれないということは、当時の私にとっては励ましになった。何より、彼はオタクにして、オタク的のものを学問の内にみいだす才能を有していたからである。彼は彼のブログで、オタクコンテンツに対する批評を哲学の知見から述べており、当時私は彼のスタイルに甚だ影響を受けた。現在彼は大学院へ通っているようである。そして、さっき私は彼の投稿を見て笑った。

 彼は今日、バイトにふるわないことが有って心がふさぐこととなった。そこで憂さ晴らしとして、楽曲、「INMU KING」を浴室で歌ったというのである。私はこの曲をきいたことがなかったが、ツァッキさんの投稿を見て釈然とした。ツァッキさんは昔から精神の強い人である。くじけそうになった時も、必ず自分で自分を励まして立ち直る。だから、きっと「INMU KING」は彼を励ますような歌なのだろうと私は考えた。

 私は帰り道で「INMU KING」の歌詞をスマホにより確認した。内容は田所をほめたたえるものであった。無論その一方でけなしているようにも見える詩である。この面白さは私たちにしか分からない。いや。面白いのではない。稲葉、松本の歌に「ミエナイチカラ」という歌がある。読者は検索して、私の上げる曲の歌詞を確認してほしい。明らかに「INMU KING」には、稲葉のいう見えない力があり、そうして、それは「私たち」が今まで自分で自分を励まし、淫夢のことを思う際に必ず感じてきた力である。最近、私は「迫真ジャズ部」という淫夢関連の動画に流れる、カミロの「On fire」を頻繁に聴いていた。無論頭では田所ら淫夢の面面を思っていた。この儀式は私が中学二年のころから絶えず取り組んでいるものである。「私たち」はおおぜい居る。一人に、エックスのかにパルサーさんを挙げておきたい。彼も近ごろ、みのミュージックが「INMU KING」を論じたという動画を見たことを報告している。なお、余談だが、みのミュージックはブログ「みそは入ってませんけど」でこのまえ名前が出た。私も高校時代にみのミュージックを見て、ロックの知識を得たし、或る時はエックスのあすぜむさんもこのチャンネルに言及していたものである。さて「INMU KING」の歌詞は、熱い内容であった。私たちが淫夢に熱狂はすれども絶望はしないゆえんであるところの、田所その人の魅力が明らかになっていた。

 田所の魅力とは何か?それは、卑しさを徹底しているところである。却って神聖に感じさせるところである。圧倒的に男性的で、男性的なものを完全にきわめているところである。女が見たら絶対に笑わない存在であるところである。そうして、社会や集団の中でのけものにされた人、あるいはのけものにされていると感じてひがんでいる人が、田所のおかげで笑顔になるというところである。

 このようなテイストは、たとえばマキシマム・ザ・ホルモンにもある。このバンドは、チェンソーマンの第三話で曲を歌っており、これが入神であった。その歌詞がやはりよい。

「体にほら/エンジン」

 ホルモンは下品な歌詞が多い。曲じたいが、架空のバンドで言えば漫画「デトロイト・メタル・シティー」のあの三人だったら、このように演じるだろうという激しくめちゃくちゃなものである。やはり、学校では、女子のいるところで話題に出しがたい存在といえる。フリーザを歌った「F」はファンの作ったミュージックビデオで歴史上の犯罪者を映すなどし、中学時代、私も部活の先輩からその魅力を語ってもらった。彼と喋ったのは楽しい時間であった。彼、また部員の内でも男子たちは、淫夢のことを知っていた。そして、私たちは淫夢の語録を覚えていた。本編を見たという強者もいた。

 さっき私は家に帰り、「INMU KING」を初めてきいた。そして思った。

 歌詞は完璧で、特に田所をイエスになぞらえているところはよい。イエスも田所同様、またこれは遠藤周作も「イエスの生涯」で書いているが、極めてみじめな境遇に立たされた人物である。そのあとで、人から崇拝される教祖として、新たにまつりあげられた存在である。しかし、曲がよくない。これなら、まだ「On fire」の方が俗な印象を与える余地がなく、高雅であるといえる。「INMU KING」がツァッキさんを励ましただろうことは分かるが、これは確かに劇薬のような下品で卑しい曲調を有している。

 無論ミュージックビデオもだめである。あすぜむさんの好きな「最終鬼畜道化師ドナルドール」を連想させる、元ネタの切り貼りである。子どもに見せられない。ネットのいやなところが全て出ている。

 しかし、私は認める。傑作である。ハロルド作石の「ゴリラーマン」の系譜にある、容赦のない露悪から出る、人生の真実と喜びとが明らかに感じられる。現代の創作はここに極まりがある。

 私は小学生、中学生のころ、学校でいやなことがあると「ゴリラーマン」や「デトロイト・メタル・シティー」をよみかえしたものである。こうした漫画は父が家に置いていたものであり、母もまたこの手の漫画をみることを子どもを止めなかったし、むしろ見せていく姿勢であったから、私は幼い時期からこうした文芸を頭に注入し、甚だ毒毒しくなった。無論親を憎んでいる。

 私は高校一年の四月か五月、中学時代の部活の同級と、大きな交差点でたまたま逢った。私たちは信号を待っていて、彼女は私の後ろで彼女の友人らとともに私の側を指して喋っていた。彼女は高校の制服をきていて、笑っていた。たぶん私と同じトロンボーンを三年間ふいていたからだろう。

「いやなことがあったら全部ツイッターでぶちまけるのがあいつの本性だから」

 私はスマホを出していじっていたのである。彼女のことばを聞いた時、私は彼女をにらむようにして見た。今ではやはり悔いている。この段が彼女と逢った最後ではないが、殆ど象徴の如きシーンであり、あの三年間の答えはこの時の彼女と私とに表れていたわけである。

 彼女もツイッターをやっていた。そうしてよく弱音を吐いていた。中学二年のころ、あるいは一年の冬だが、男の先輩ひとりと私たちとの三人でツイッターの話をよくしたのである。喋りは淫夢をふくむ際は彼女がおののいたようなそぶりを見せるので、先輩と私とは笑っていた。ツイッターを介して、私が萌える美少女の絵をリツイートする性格であることが発覚するなどし、二人の歓心を買い、今思えばこうした喜びこそ私の最も必要とするものだったのである。私たちは、尋常ではない過酷な部活の練習の中で、互いに励まし合っていた。私は無自覚にそれをやっていた。二人はどうやら自覚的にそれをやっていた。だから、二人と別れてから私は、新たに知る人たちと励まし合いながら何かへ取り組むことができなかった。励まし合うことは歳の近い友人どうしにおいて最も喜びあるものである。すぐれた冗談による笑いや恰好をよく見せるセリフ、頭の切れる言葉などは全く劣るものである。なぜこのように言うかといえば、仲のよい仲間である人びと、そういった集まりというものは、私の見聞上、必ず互いの存在によって励まし合うことで関係を持続させていくものであるからである。これは中学の部活の顧問が私たちにかつて諭したことでもある。私は大学四年になるまでこの奥義を信じるに到らなかった。私は育つのが遅かった。あの音楽教員の言うことにおいて、このことだけはなかなか信じられずにいた。

 彼女とツイッターの話をした際のことを一つ語っておく。彼女は私がリツイートした或る絵のことを笑っていた。その絵は或るキャラクターがじっとりとしていて、慰めの言葉を言うというものであった。私はなんともいえず気に入ってこの絵をいいと思ったのだが、今思えばこの時の私はストレスある現実の日日にこの絵の女のような存在を求めていたのである。私は当時、曲の歌詞とか漫画の内容は芸術として現実から独立して存在するものと考えていたから、現実との因果を無視していたのである。そこで、彼女は私から私の心理をよみとって笑ったのだろう。美少女から慰められたいという心理を。

 これは快い段であったのだ。彼女もまたオタクであったし、彼女のツイッターは彼女の趣味の話で満ちていた。彼女は私の趣味を解した。

 ところで、あの絵は作者が自分を救うために描いたものだったろう。今なら分かる。創作や虚構であれ、特に同人や匿名であるほど、作者のもとめるものが作中に反映されるものなのだ。

 無論こうして己の体験をネットに匿名で書き、ブログとしている私は気持ち悪い。下等である。そんな姿がすこぶる田所に似ている。淫夢をネット上にひろげる淫夢信者らと同じタイプの露悪をやらかしている。それでいいのだ。私たちは田所を崇拝しているのと同じことで、そもそも田所こそ私たちであるのだ。ついでに語っておくが、エックスにかつて、ちゃおという人がいた。ちゃおさんは、アニメアイコンの一員で、私と同じく学生であったが、淫夢の普及を嫌がっていた。同性愛をばかにする要素がおかしいというのである。私はちゃおさんの気持ちが少し分かる。本当はよく分かると言いたい。どう考えても淫夢の普及はおかしい。語録を面白がるのはいい。しかし、淫夢のネットにおける受容は基本的に同性愛をばかにするところにある。私は同性愛をばかにしていない。淫夢に触れがたいわけである。

 田所をおもしろがる者は田所のようになる。純粋な田所という存在ではない。解釈された田所である。田所は顔が表示されただけで、人から笑われる存在である。ニコ動のコメントで必ずばかにされる存在である。下等とされている。私は田所をどうとも思わない。一般論で言えば、田所という正体の不明であるところの人物を勝手にネットでさらすことは、ゆるされないことである。しかし、これはインターネットがゼロ年代に世の中へ定着してきて、これをおもしろがる人びとが現れてくるのと全く歩調をあわせて、田所、そして淫夢というコンテンツが発展していったのである。

 そもそもインターネットとは、遊びである。しかも、無限に悪ふざけのできる道具である。特に子どもはこれを使う際、モラルに関して学校から指導されるほどに大人から懸念されている。たとえば、個人的のことをインスタか何かにあげすぎるという問題であろう。中学時代、ネットが無ければこれほど仲よくはならなかっただろうと感じさせる友人は多く居た。ネットで同じものを見て、同じ曲をきいていることの発覚した者ほど、仲間意識を強く感じさせる者はいない。或る者はリゼロこと「ゼロから始める異世界生活」アニメ一期を当時みることができたため、その話でしたしくなったものである。それはネットで見たのである。趣味が同じであれば、感性も甚だ近い仕儀となる。そういう手合いとは親友になりやすい。ついでに言っておくが、オタクの友情は特にこうした特殊な感性の共有というところから出るものであり、一般に存在するような、単に場を同じくする友だちの間における友情とは違う。

 淫夢を共有する仲間では、自然に強力な友情が得られる。淫夢による笑いは誰でも笑えるものではないから、これを笑えるという感性の共有によって私たちの仲間意識、また互いを尊く感じ、心から愛する気持ち、温かいと思うことはこの上なく高まる。私にはそういう連中が中学時代に居た。

 では、淫夢のおもしろさが分かる者とは、どんな感性を有するものであろうか?

 一つに、下品なものを肯定する感性が必要である。コロコロコミックと同じである。

 一つに、刺激の強いものを楽しめる強さが必要である。村上龍の小説と同じである。

 一つに、社会や他者に対する何らかの僻みを知っていなくてはならない。僻みから出るどすぐろい感情を知る者でないと、淫夢の有しているおぞましさに適応できず、不健全とみなして軽蔑してしまう。

 淫夢のおぞましさは、野獣先輩の扱いが学校でいえば、いじめと殆ど同じところにある。ネットによって実在の人物をつるしあげることの可能になった現代では、子どもが己と同じ学校へ通う者をネット上でいじめることも可能である。そのネタとして相手の写真とか情報とかがある。そして困ったことに皆で一人のいじめられっ子をいじめるのは楽しい。野獣先輩はそういう扱いを受けている。しかし、彼は「INMU KING」に神のごとくまつりあげられている。私たちは彼のことを崇拝したく感じている。

 私たちはそもそも、いじめをやりたくない。いじめは、やったぶんだけ自分に返ってくる。人をののしるとかバカにするとか、接する際に礼をもってしないとか、そうしたことは全て自分に返ってくる。それは自分が人から認められることを欲しないのと同じだからである。人間の頭はそれほど器用にできてはいないから、他者をあなどることによって自分のことも大切にしなくなる。また人が離れていく。そうでなくても、人づきあいが下等なものになってくる。「INMU KING」の曲調はやくざであった。世の中には、人格のゆがんでいる人というのがいて、ゆがんでいる人たちで仲間をつくっている。こうした集団に入ってはいけない。しかも、こうした集団は学校における道徳の教育では悪とされるが、そういう悪のままで社会の中に生きのびている。たとえば、私の親は人格が下等でよく人に対する悪口を言っているが、酒をのんでいるからとかストレスある仕事があるからとか理由がついて、十九年の間その食卓を一人耐えてきた私の不快感も仕方なしとされる。この手の問題がある。私の親とは、父と母とであり、この二人はこういう性格の悪さにおいて共通するがために、ひかれあうこととなったわけだといえるだろう。社会では、人は或る面では仕事に善くつとめる善人、或る面では家庭で暴君にしてまかりとおっている悪人であるというような、二面性というものが生じることがある。一人の人間の性質が善か悪か二分できるものではない。両方有するのである。そうしてそれは思春期の子どもがまず異常に感じるものであり、なぜこういう大人がいるのか、多少思考のできる子どもであれば必ず不可解に思って考える問題である。

 淫夢を愛する人びとは、恐らく子どものころコロコロコミックで笑っていた。感性がそこから成長していない。どういうことか明らかにしてみようか。

 コロコロコミックは下品であった。卑しい言葉を絶叫することで子どもを笑顔にする漫画がのせてあった。現代、男女の間で社会上の差をなくす取り組みがいろいろである。それはジェンダー研究が進むことで、ジェンダーに関する知識を、社会の構成員がみな獲得することを必要とし、私は大学で少しかじることができた。しかし専攻していない。ハンパである。したがってつぶさに述べがたいのだが、ジェンダーに関して問題になるのは、社会において男女の待遇に差がある場合である。二十世紀は特に、歴史がくりかえしてきた性差の問題を改めようとした時代であったし、この取り組みがいまだに終わっていない。コロコロコミックは下品であった。実はこの手の下品さはジェンダーに関係する。

 尤も社会における男女の待遇の差は関係しない。子どものころ、男子と女子とで決定的に異なる感性として下品さの問題が出るのである。しかも小学校とか、公立中学とかにおいて特に出てくる。そもそも、公立だとあらゆる階層の親が同じ学校へ子どもを入れるから下等な子どもが出現する。私は勉強は出来たが感性は下等で、コロコロコミックを好んでいた。こうして、サブカルチャーをおもしろがる趣味の子どもとして成長をし、困ったことにキモオタじみてきて、親からもよくばかにされていた。言動を尋常にせよというのである。やはり、おかしな漫画や動画をみていると言動が気持ち悪くなる。

 だいたいサブカルチャーというのは、見たり聞いたりすればするほど見た者聞いた者の頭をおかしくするものである。なぜこういうものがあるかといえば、それは最も正当な理由としては、現実の生活においてストレスや苦痛が有った際にこれを解消をし、人を励ます為に有るという他ない。これが上等になってくると、まず学校では部活がある。私は中学時代、本来はネットやゲームに向けていただろう情熱や体力を部活へ向けていた。それは私がそうしたかったからである。小学生のころ、液晶ばかり一人でみるという時間をかなり過ごし、友だちは幾らか居たけれど、やはり学校から帰ったあとや土日の休日を時間を画面を見てなんとかつぶすことは苦しかった。中学生になってから、部活に入ってやっと他者と共に週六くたくたになるまで努めることができた。これはコロコロコミックを超えている。私は勉強を他者と協力しておこなったことがない。協力はオーケストラ部において学んだものである。

 しかし、部活は性質上、学校では勉強と同等の取り組みとされない。学校は勉強をし、授業を受け、特に私の家の場合は大学へ進学することを目標としたプロセスとして存在した。私は気づいたら部活さえ全うできればよいと本心では考えていた。私は第一志望の高校に落ちたが内心どうでもよかった。親は虚栄心から、受かればいいと考えていた。私は部員の女子がその高校を受験するときいた際に、なぜか彼女をまねしただけだ。私は彼女を無意識に仲間と認識していた。彼女が淫夢を解しない感性であることを度外にしていた。本当は、淫夢を解する者の行くような高校を受験すべきであった。私は第二志望の高校に受かった。中三の冬、受験の時期、私は自分が誰だか分からずにいた。それだから進路をどのように決めればよいか知らずにいた。このあと、親族は私が受験に落ちて悲しんだものと誤解をし、私は自分で自分が分からないのだから弁解しなかった。今思えば弁解すべきだった。私があの女子のリアクションを無意識に欲していたがために、あの第一志望、やけに難しい高校を受験したのだということなど、親族の連中は知る由もない。彼女は私のことが好きだった。私は彼女に対していつもすげなくしていたが、無意識下では、彼女がいなくなれば私の生活が甚ださびしいものになることを知っていた。

 淫夢の特徴は、甚だふざけていることである。めちゃくちゃであることである。狂っていることである。村上龍の『昭和歌謡大全集』と同じである。コロコロコミックである。インターネットである。内輪ノリである。悪ふざけである。淫夢は気持ち悪い。人と共有できない。深入りすると不幸になる。

 人間が生きるにおいて、最も上等な喜びは、他者と協調して何かをやりとげることであろう。これは遊びにおいてもそうで、仲間というのは互いに仲間でいようとする心持ちを有していなければ、関係が持続しない。私はさっき、或る女子と本当は同じ高校へ通いたく感じていたこと、同時にそれが無意識であったことを書いた。無意識だったから私は当時殆ど受験の勉強をしなかったわけである。私は彼女と接したいろいろの時を記憶している。ふしぎなことに、私は彼女にすげなくしていたのに、彼女と居た記憶はいずれも不快でない。私は僻んでいたから、彼女のような明るい性格をした人物が、私にいつもからんでくるのは、単にばかにしているからだろうと信じようとしていた。私はうまく書けない。

 部活に努力している私が彼女の気に入っていた。

 努力している私だけを彼女は認めた。彼女は私が勉強に努力していないことを知らなかった。

 彼女から好かれていることを、好意をもって、また好意でなくても、正常によろこばしく感じることができていれば、私はあのように今後の人生を見失わずにすんだはずだ。私はただ、自分を好いてくれる人のことを大切にして生きていけばよかっただけなのだから。

 私は「INMU KING」の歌詞に先刻感じ入ってしまった。しかし、私はもう淫夢を卒業したい。淫夢の登場人物、淫夢の面面はみな私を待つ人びとではない。

 

 最後に、淫夢語録の思い出をしるして終わる。

 或るコンサートホールで、中二の夏ごろ、舞台を作っていた。段を運んで並べるのである。部活である。部員が教員や先輩の導きのもと動きまくっていた。顧問は三名いた。指揮の音楽教員は中年の男性である。一つの段を数名がかりで運ぶ内に彼も入っていた。彼はその中途「イキスギ」と大声で叫んだ。

 私は少し離れたところに居たが、驚愕して先輩の男子をかえりみた。

「え?!今、○○、『イキスギ』って!」

「おおおお!」先輩は目を見開いた。

「え?!いいんですか?!」

「イキスギィ!」先輩は過去一の大声で叫んだ。

 私は笑い転げた。

【短篇小説?】秋の日

 今回は私の概況を伝える。ブログの本来の性質に近いが、小説らしくはない篇である。

 題は「秋の日」にした。今が十月であること。放課後ティータイムに「冬の日」という名曲があるので、これを秋にして雅懐を継いでみたい。けいおん!は二〇二〇年の三月か四月に見た。

 尤も、以下の文章は必ずしも快い話ではない。

 しかるに、景気というものをつけておきたい。まずは「冬の日」の歌を思って温かでいよう。

 

 この文章を書くゆえん自体が景気づけである。自分で自分を励ます必要のある時がつい昨日来た。平たく言えば、前からかわいいと思っていた女の子が、遅い時間に男とふたりでいるようすを見つけてしまったのである。少し詳細に入っておく。ただし、私の知り合いに読まれても問題ない程度の、内容を簡単に略した文章で語っておく。

 簡単に言えば、彼女は私が中学時代に好きだった女子と似ていたのである。まず、私は男とも女とも人間に対しては一般に人づきあいを避ける才能を持っている。多少自分を控え目に表現するとしても、こればかりは才能と呼んでしまってさしつかえない。この才能によって私は恋愛から遠い。十代前半のころからずっと、或る異性に心をひかれても接近せずにしまう習いである。これが最も接近しやすい時期にあったのが中学時代である。このころは部活でオーケストラ部に所属していて、練習も週に六回は必ずあったから、いくら私がぶあいそうでも会話や協調をすることは欠き落とし得なかったわけである。

 では、どうして私は人づきあいを避けながらも、恋愛などということに心を到らせる仕儀となったのか?そもそも私は中学時代から人づきあいを嫌っていた。また、やはり部活の関係もあって多少接することになる人物は、先輩も後輩もふくまれてくるわけだが、私の場合自分の中の掟のようなものを特別に設けていて、実にこの掟によって私はこの人たちと表面上のみともいえる交友をなしていたのである。そうして、ふだんの授業をうけるクラスにあっては部活以上に他者を遠ざけていた。しかし、当時私の崇拝していた、部活の顧問かつオケの指揮を担っていた音楽教員はいつもしきりにこう教えていたのである。

「好きな異性と互いに認め合える関係を作ることは、すばらしい人生を生き且つ向上させるための最上の方法である。若いふたりがそれぞれ自分の人生の目標にむかって努力して生きていれば、それが互いの道を励まし合う最上の手段となる。そうして苦難の道も心をみたしながら進んで行けるのである」

 この語は私の手による解釈を以て述べたものである。

 なお重要なことは、異性を好きになること自体が特殊な現象であることである。そこで音楽教員は、この恋愛の論を定義する際、恋愛なるものは若い二人が高い目標をおのおの有していることにより、二人して生き生きとしている人物として光り輝く点に意義ありとした。しかし、当時の私はまだ幼く解釈が甚だ浅いものであった。したがって、恋愛はただ心をひかれる異性に対して偶然に発生するものであるとの理解しか遂げえずにいたのである。そうして、中学生二年の年は単に見た目のこのましいクラスメイトを好きになっていて、何箇月か甚だ慕っていた。私の心が仲間の部員の女子へ向かい始めるのはそれより後のことである。

 私の恋愛における問題は、私がこのましい異性に対して必ず恋することである。恋の感情は自分の恋人に対して向けられるべきである。つまり、相手からも愛されている必要がある。中学時代からずっと、私は殆ど付き合いのないような相手に対して恋をしてしまう心を有している。

 無論私はストーカー気質である。しかし、相手に好意がバレてはまずい。高校時代にあっても甚だ心をひかれる異性は居た。今に到るまで私の注意していることは、絶対に好意の露呈を来さぬように努めることである。あからさまに相手へつきまとう行為も当然しない。ひそかに好意を有するだけである。

 

 恋愛に関して少しだけ補足しておく。

 無論性欲の問題がある。ところで、人生たのしそうな人たちがどの年齢の層にもいるものである。案じるに、こういう人たちは性欲にかぎらずとも、己の起こす欲望をすべて適切に満たして生きているからこそ楽しげであるのだろう。他方、私は自分の欲望というものが、少時より今に到るまで明らかに捉えることのむずかしい嫌いがある。予て何を得ようとするにも、それを得るゆえんを理屈に尋ねる考え方のクセが存在する。性欲にあっては、恋愛なるものと共に立つありさまが想像しがたい。そもそも、私は人づきあいを善くしない習いである。日に一度も人と対話しないこともめずらしくはない。そういう次第だから、恋愛なる名前の下に、動物の如き性欲の働きを伴って異性と接することを信じがたく感じるのである。

 したがって、気づくために長く掛かったことがある。それは、或る異性に対して恋愛の感情を生じた以上は、彼女に接近するために手を尽くすべきことである。こうしたことはアニメや漫画では当たり前の前提であるように思われる。しかし、この前提には裏がある。つまり、恋愛は人間の生物としての本能から出る感情であるから、その筋をとおして彼女と寝るに到るべく努力しなくてはならないことである。この努力をおこたると不幸になる。無論努力に失敗をし、相手をふりむかせることのできない場合もあるだろう。しかし、人間は動物であり、本能という運命を背負っている。夏目漱石の『三四郎』では、主人公が格上の異性に恋する。相手は別の男と結婚してしまうから主人公は不幸である。このようにして、絶対に寝ることのできない相手に恋してしまった者は不幸となる。

 恋愛の奥義はこんなところに存したのである。

 

 ついでに言っておくが、私は最近、村上春樹の長篇を読んでいる。私の思想に少なからず影響を与えつつあることであるから、つとめて適切な文章になるようにして感想を表しておこうと思う。

 まず、以前私は夏目漱石の長篇を『三四郎』から『明暗』まで全て読んだ。もちろん読解の質に関して完全ではない。とかく文豪の作はハンパにであれ目をとおしてある必要があるのだ。

 漱石は近代文学にあって口語文の文体で小説を作った作家といえる。

 一方、村上春樹は戦後の作家である。

 文体は整っている。内容は時に難解と感じる。近代文学における口語文の文体や、この文体によって述べられる考え、叙事の内容を継承していると感じる。

 漱石と異なるのは、性愛に関して突っこんだ叙述があることである。たぶんこれだけ詳しく書くことによって明らかにすることの可能となる問題がたくさんあるゆえに、このように書くのだろうと私は推量する。しかし、これはとかく大人の領域であると感じる。しかも、本来は性愛に関して喋ること、論じることは、あまり目の前に人の居る際にできることではない。同じようにして著述にあっても一般的なことではない。

 たとえば、多少したしい友人とは性にまつわる話題に興じることが可能であると思う。一方で、初めて会った人と興じるにはいささか特殊な状況がなくてはならない。私はそれを具体的にどんな状況であるか想像することができない。

 これが村上春樹の特徴の一つをなすだろう。彼は性の問題を文芸で敢えて扱っている。

 また、『ノルウェーの森』について少し触れておく。これは主人公が大学生であるが、若くしてすでに心の老いている感じがする。未来に対する絶望感のようなものを有しているのである。しかし、心の方は実際若く活動している。思うに、老いた者は情や思考をたくましくすることさえ減じるからである。

 このような小説は不吉である。とかく重い。私はこれを読んでから自分が以前よりも、何か苦しくかかえこんでいるものを増やした心持ちがした。しかし、私はもともとあまり小説を知らぬ人間である。このような小説を読んで小説について読書の量をかせぐ必要は当然ある。

 それから、自殺する友人という存在が出てくる。これも重い。主人公は直に悲しんでいる。私が不可解に感じたのは、これだけ悲しみがあって、なぜ主人公も自殺してしまわないのかということである。

 そういう疑問が生じるからこの小説はやはり不吉である。そもそも、性愛の件と同じで、健全な人が自殺とか絶望とかについてまじめに関心を持って考えること自体が、現代のタブーといってもよいことであると私は思う。案じるに世間になかなか、文芸を以て自殺の問題を考える人は見つけることが難しいはずである。四十年前の小説だが、現在でも明らかに新しく且つ重いテーマを扱っていると感じる。

 

 次に私の話をしよう。

 私は三角関係にトラウマがある。

 まず中学時代の話である。二年のころ、部活の先輩の男が私の同級の女と仲よくしていた。先輩とは私も仲がよかったのだが、この時はじめて私は三角関係ということを記憶した。

 概念として記憶したのではない。己に伴う体験として記憶したのである。私は彼女に恋していて、先輩が彼女へ接近していくようすに耐えがたい心持ちを覚え、そこで記憶したのである。

 先輩と私とは彼女の性的な魅力について語らう習慣を持っていた。そうして、私はこの対話を楽しむ一方、先輩が彼女を本当に奪う危険に内心おびえていたのである。

 この件について大事なことがある。つまり、私はこの時うしろめたい感情にめざめたのだということである。私はもともと人づきあいを忌み嫌い、頭の中でいろいろと理由をつけては、成るべく人に接することなくすむように心がけていた。その理由の一つに、みだりに交友の輪をひろげすぎると、必ずもめごとか何かにまきこまれるだろうという懸念が有った。小学校は学級崩壊していたし、そもそも子どもというのは出しぬけにおかしなことをするものである。としの近い者らに対する警戒の念は予て有していた。しかし、やはり人に接せぬ暮らしは病的である。だから部活に入ったのである。これ自体は間違いではないはずだが、結局私は人づきあいという行為をみずからに強いるに到ったのである。そうして、実に皮肉なことに、私は三角関係の中でもう一人の男に対して嫉妬する心持ちにめざめてしまうに到った。仕方なかったともいえる。部活における人間関係は、殆ど仕事のようなものである。教室でみだりに付き合う遊びとはだいぶ性質が異なる。私は先輩に敬語を使っていたし、部員と接する際は部活の話をしていたわけである。これは私が仕事の人づきあいを学ぶために入った部活であった。

 他者に対する嫉妬心を、自ら生じてしまうことは、自分の心を複雑に感じる奇怪な気分を私に教えた。それから私はますます、他者すべてを遠ざけたいと考えるようになった。しかし、部活は入ったからには最後まで続ける。三年の秋まで活動のある部活であった。

 私は人を嫌うようになっていた。そんな心持ちであった或る時期、私は同級の別の女子からなぜか好意を向けられるに到った。彼女はもともと私の眼中になかった人物である。二年の秋ごろになると、私はバストロンボーンの名手として部内に知られ、まだ学力も腐っていなかったから将来性が有るということで、かなり高く評価されていたためである。しかも、彼女が小学生だったころに好きだった男子と私とで下の名前がかぶっていたらしい。とかく私は意図せずして異性から好かれた。

 この女がまた同級の男と私とで三角関係になった。彼はめずらしく私と仲がよく、私の情報をいろいろ握っており、彼女へさまざまなことを勝手に教えた。その中に、私が彼女の好意に気持ちをよくして彼女のことを好きになってしまったことも、恐らくはふくまれていた。

 いや。少し誤りがある。彼は私と仲よくはなかった。彼は私を嫌っていたはずだ。

 そのことは措く。彼の気持ちなど把握できていない。

 問題はまた三角関係になったことである。彼は彼女とひんぱんに遣り取りしている。私は彼に対して甚だ嫉妬している。私は彼女に対してなかなか直接はたらき掛けることができない。そうでありながら、彼女から自分が好かれているはずだという淡い確信がある。私はずっともどかしかった。

 三角関係について、以上のようにトラウマを有している。私はこういうことを記憶して、今では、自然な人間関係のだいたいを忌み嫌うようになってしまった。まるで三角関係みたいにして、結局はいやな気持ちになるばかりだろうと想像してしまうのである。

 

 なお、人づきあいの少ない私は同時に思いやりや気づかいにも甚だとぼしい。

 学校ではいつもボンヤリしている。小中高、大学へ到ってもこの調子である。

 では、なぜこのような性質の持ち主が時として、異性から好意をむけられるに到ったのか?

 一つにそれが不完全な好意だったことがある。私は長らく床屋で注文が下手だったために、なんというか変な髪型をしていた。ヒゲをそらぬことを人から注意されたこともある。たまに、ふるまいに奇怪なところがある。小学校のころよく男子と殴り合いをしていたし、そのころを知る者からは甚だ恨みを買っていた。とかく怪しい人物であった。しかし、部活では結構がんばっていたし、勉強がなぜか出来ていたために、一おう女子から認められる要素が有った。喋り出すと内容が普通からずれていてだめだが、或る時はまじめな顔をしてじっとして黙っていることがあった。そういうそぶりから知性を感じた女子も恐らくは居た。私は自分に自信が無かった。こういう者に対しても女子は誤って好意をむけるのである。不完全な好意といえる。こうした恋愛の感情は成熟しておらず、思春期の感がある。

 現在、私は二十二歳である。大学四年である。いまだに成長していない。髪型が少時よりかはマシになった程度であろう。大学にあっても、私の顔を知る者は、私をさとして幼稚さをそしることがある。

 

 見た目の話をする。

 果たして、この世は顔であろうか?顔のよさなるものは人をどこまで定めるだろうか?

 中学の部員にあっては、私の知る或る女子はすでに割り切っていた。自分の見た目の平均よりも美しいことを自ら主張していた。実際人から評価されていた。そうして、自分の人生をよい人生とするための努力を惜しまなかった。勉強をして難しい高校へ進学した。或る時、将来やりたいことを私に教えた。曰く彼氏と遊んで夜に家に帰って寝るとのことで、どうも大学生に成った後のことまで既に考えてあったらしい。彼女は性愛に関することさえ既に決めてあった。私に大幅な差をつけて彼女は早かった。

 彼女は自身の見た目を使うことについて、全くためらいのない心境に到っていた。一方、私は当時身なりを正すことをばかばかしいと思っていた。常識が無かったのだ。しかもそういうマインドは大学生になっても持続していた。最もひどかったのは高校のころで、三箇月くらい床屋に行かぬ時期があったと記憶している。明らかにみにくい見た目をしていた。私はそのころ自暴自棄の心境であった。

 さて、要するに見た目というものは一たい何であろうか?

 私は少時よりずっと、人間に見た目の差のある現実を心に病んで畏れを覚えている。思考や意識を為しうる頭になって以来、もうたえることなく気がかりに感じ続けている。そういう内面のクセであるといえる。たぶん幼い折そういう憂いから出る優等生発言をして、誰か大人から褒められた際の快感が頭に残ったせいだろう。無意識に習慣となったものと私は推量する。しかし馬鹿げたことに、現在の私の所有している服がみな卑しい品であることからも分かるが、私は身だしなみが殆ど成長せずにしまった。

 たぶんこれで私は損をしている。大学生になってからも、寝癖のある頭で講義に出た回数は結構なものであろう。着ている服もいつも恰好のつかぬものであった。そのまま現在へ到ってしまった。

 具体的にどういう損をしているだろうか?一つにこういう欠陥から、私に人が寄らなくなっていただろうことは分かる。私は実家を出てアパートに住み、山奥にある大学へかよっているが、残念ながら友だちと呼べる人物は出来ずにしまった。いわゆる恋人は言うまでもない。

 すると私に気をつかってくれている人びとがいれば申し訳ない。私はこの人たちを友だちとは感ぜぬのである。

 しかし、辞書の定義からすれば、単に場を同じくする者は友だちと呼んでよい。私のいう友だちはむしろ関係の深いものである。どうもかつて中学の部活で出来た仲間のように、苦しみある練習に共に耐えたような手合いでなければ友だちでない感じがする。これは私の問題である。私は過酷ともいえる仕事に自分がとりくんでいない限りは友だちを持たぬわけである。

 ではバイトはどうか?勤めていて特に連勤の際は甚だ労したものである。しかし、大学生になってから、バイトはどうしても楽しんでよいものと取れない。これも私の問題である。

 

 トラウマの再現による苦痛の話をする。

 すでに述べた通り、もとより私は人づきあいを忌んでいる。自分から避けている。本来はわざわざ大学へかよう性質の人物ではない。申し訳ないが大抵の他者のことを馬鹿にしている。私は国文学科であるが、やはり講義はつまらぬと感じる。専攻の関係で、私じしんが世界史や思想の領域にどうも適した頭をしているとみえる仕儀となり、また国語に対する内省も文法をふまえるようになった益はある。自分の適性を自分で認識するに到ったことは成長であるとしておく。しかし、なんといっても小学校で学級崩壊を経験したから、なぜ教員となる免許を取ろうとする学生がいるのか理解できない。甚だ申し訳ないが、教員になる資格を取る学生は何か異常であると私は思う。こんな心もある。

 肯定を下し得ない大学へかよって四年目に当たる。四年目は必修を終えてあって殆ど出るべき講義がない。自身の卒業する大学をそしる心持ちのある私は、無論自分で自分がいやである。

 大学は同じ専攻の学生と厚い交流をむすぶべきところであろう。しかし、突きつめたところから言うと、私は関心のある領域を同じくする学生を全く見つけるに到らずにしまった。まあどこかに誰か居たのかもしれないが、そもそも私は何か研究したい対象を存したわけではない。人生における問題が最初から私の頭の中に存したのである。卒論は六月には完了してあり、その題目にしても成るべく時間の掛からずにすむものを選択したにすぎない。私の成果はむしろ匿名にして上げる創作の側にある。

 私の解決しなくてはならない問題とは、疑うべからざる過去に記憶してある恐ろしいトラウマである。複数あるが、その内でも三角関係に関しては、昨日現前で再現を見て苦い心持ちまで私は思いおこした。この篇を上げるころには昨日よりもさらに前のこととなっているはずだが、それは措くとして、まず昨日みた光景は詳しく書かぬにしても、大事なのは、私のもともと知っている女の子が遅い時間に男とふたりでいるところを見つけたことである。読者に注意してほしいのは、それを見つけた際の私がその男に対して嫉妬したわけではないことである。固より彼は私の外にいる。誰だか知らない。彼と居た女の子にしても同じことで、実は彼女は私と同じバイト先につとめているのだが、全く私とは付き合いというものがない。同じ大学ではあれ学科が違う。接点のみいだしがたい関係にある。

 それだから彼女は私の恋する対象でさえない。問題はシチュエーションだけである。形式において、私いがいに男と女との存在があるという、三角関係の図をなしている。あのころと似た状況を呈している。それが私をして思いおこさせたわけである。相当、私はトラウマに感じていたわけである。

 私は或る核心を心身の基本のようにして有している。それは人生の目標であり、つまり恋愛の成就である。自ら望むわけではない。本能である。無意識に私の気持ちをコントロールしてくる本能である。

 ところで、中学にて音楽教員が恋愛を勧めた話はした。彼は今では私の崇拝の対象ではない。しかし、私がかつて信じた理論である。思春期を恋愛中心に考えて生きていた事実は不変である。また、当時より今へ到る熱心な思考や意識の働きは、私をして或る核心の持ち主と化せしめた。その核心がつまり、自ら恋愛をし、成就することを喜ぶことである。

 皮肉なことに、昨日三角関係の再現をまのあたりにしたことで、苦しみの想起にさいなまれつつもようやく自分の核心に気づいたわけである。彼女は男に対して、ねこなで声であった。前きいた際とは全然違う声色をしていた。なぜか、私は彼女に対して怒っているような気持ちを覚えた。くやしいような気もした。彼女と自分との関係に絶望したような苦痛さえ感じた。

 しかし、私は彼女に対して全く恋していなかったのだ。もう一人男が現れたことにより、私の頭の中にもともと有ったトラウマの記憶がよみがえって、いきなりあのころの心持ちを私の内に再現せしめたわけである。これは実はわけのわからない現象である。

 自分の核心が無意識ながら、恋愛の成就にある。すると、恋愛の対象として適切であるとされる女子が別の男といる状況は最も危険であるとされる。私の頭は勝手に反応して苦痛を来す。これを感じる側であるところの私としては、こういう脳の仕打ちが甚だ迷惑である。

 そもそも、実際の私の側では彼女に対して恋すらしておらぬのである。

 

 それにしても、なぜ人は己の本質を自ら選ぶことができないのだろうか?

 まず人は生物として存在する。食欲や性欲を生じる。私の場合、困ったことに恋愛対象に特定の条件がある。これも自分で選んだものではない。私はかわいい見た目をした女の子でないと、恋愛対象として認識することができない。逆に言うと、かわいい女の子に対しては極端に執着する嫌いがある。

 敢えて他者のせいにしよう。全て中学時代のせいだ。三角関係は二回生じたわけだが、二人の女はいずれも、しなをつくるのに長けていた。甚だ色っぽく、身ぶりだけでなく喋ることばもみだらであった。しかもそういうふるまいをして卑しくなることのない、何だか天性とでもよぶべき感じのするかわいい見た目をしていた。おまけに声もよかった。もう一人の男が彼女らに近しく接しているのをみていると、私は激しい嫉妬にもだえることを禁じ得なかった。彼らは彼女らから、俺の見たことのない表情やしぐさを享受するを得ているのだ!なんとしても彼らの手から彼女らを奪いとらなくてはならないと当時の私は思った。しかし、この感情のけがれていることを私は心に病んでいた。だから、全く感じなかったことにした。たとえば、何かグロテスクな形をしたものを見た際、見なかったことにするかのようにしたわけである。己の内にある汚い感情を私は強いて無視した。私はストレスがたまった。

 無視したわけだからその欲望は発動しない。私はその気持ちを誰にも打ち明けずにしまった。

 今にして思えば、それで私の核心は決まったわけである。私の中にプログラムが定まった。

 私は或るタイプの女の子に対して熱狂的に恋する人格を確立するに到ったのだ。

 しかし、どうしてそんなふうになったのか?なぜかといえば、私の中で抑制された恋愛の感情が永遠にそこでくすぶり続けるはめになったからであろう。思春期という時期に、それまでにない激しい感情をもって異性のことを欲したということ。しかも自分が欲している自体自分で承認しないことを選んだこと。その時点で私の中に定まった。私はこらえた気でいたのに、実際は却って強化するという形で封じこめてしまった。

 感情を抑えこみ、自分の行動さえ無為にした私の判断が、皮肉にも私の心の原理を定めたわけである。

 

 また一つ話をするが、次の話はわけのわからない話である。

 そもそも私はどうしてこんな所にいるのだろう?私のいる所とは、アパートにある私の部屋である。それは進学してきた結果である。私は仕送りや学費の恩恵を受けていながら、親族に対して憎しみばかり覚えていて、実家からのがれる為にここへやってきたわけである。この人びとに銭をはらわすことはまた私の苦痛とするところである。どうも借りをつくっているように感じる。いやな人びとに借りをつくるのは当然恐い。踏み倒してやる。

 私のブログは裂空伝という。かつてエックスことツイッターに熱中していた。今ではアカウントを消してあり、ブログに篇をあげるだけにしている。

 ツイッターは高校時代から大学時代にかけて、殆ど私の過ごすところであった。そうして長居しすぎた。ネット上の人びとは私のアカウントを介してたまに私を関知したが、言葉を返してくれることさえあっても、私の側で彼らに対して近づいていくことがなかった。結果何か深い交流を得ることがなかった。

 どうしてこういうことになったのか?

 とかく私の生きたあとには何も残らない。人との関係を未来へ持ち越すということが無い。

 

 コンテンツの話をしよう。

 何かコンテンツを愛する者にオタクがいる。今はスマホで映像をかなり使う時代だから、とかくデジタルであり、若い人でもみな驚くほどにコンテンツというものに通じている。それは映像というものがコンテンツをいろいろと広めるのである。コンテンツはあまりにも種類が多い。オタクという語はもはやスマホを用いる若者一般を指して言ったところで、現に知られているニュアンスを逸しないと思う。

 私は小学生のころゲームと漫画とに熱をあげていた。

 中学生のころ部活に熱をあげていた。或る友人とはゲームもやった。互いに己の家に居ながら協力プレイのできるオンラインによるものであった。

 高校生のころさまざまな種類の音楽をきいていた。それからアニメをいろいろと見た。読書もした。

 大学生になってから大きく変化したことがある。文章を書きだしたことである。

 コンテンツはかなり人格や内面に影響する。思うに、健全ではない。コンテンツで影響を受けるよりかは、誰か尊敬できる人物や、好きな人か何かから影響を受ける方が圧倒的に価値がある。

 私は少時ストーリーが好きだった。たぶん現実世界がつまらなかったからだろう。思春期になると精通などもあり、欲望とか快楽とかを前提からひっくりかえすこととなる。部活は甚だ忙しく、且つ思い出を多く生み出し、生きがいとなった。しかし、部活へ入った最初は合奏に励むことを目標としていたのが、三年の秋に終える段となっては、部内における恋愛で脳をおかされていた。これは全く予想しえないことであった。私は好みの異性とむすばれることを無上の幸福とする思想に到ったわけだが、高校生となってすぐのころは、とかく放心していて、ぽかんとしてアニメを見続けていた。かつて中学の部活にて、自分よりも先に立ち去って行った先輩たち、自分はどうもなじめなかったがめちゃくちゃ成長して立派になった同級たち、現在もがんばっているだろう後輩たち、転任した顧問、すべて何も準備のない状態から初めて部活に入ったころと比較して、自分がそういう無数の仲間とか思い出とかを手に入れたわけであることを思うと、全く夢のようであった。そうしてアニメは虚構であった。音楽では、ヨルシカの「言って。」などは明らかに過ぎ去った青春に宛てた歌として聴くことができた。

 私の中学時代は現実世界を光り輝くストーリーにした。それは全く虚構などではなかった。

 

 トーマの「オレンジ」は、作者が序をそえて「全部、なかったことにしよう。」と述べていたと記憶している。私は曲の趣を含めてここに喪失を惜しむ情を認める。

 私は生き直すことのできない中学時代を愛するあまり、大学生になってから、新たに知る人物を友とするに到らなかった。それは高校生の時点で同じことであった。

 私の意識は私の内側へ向かう。私の過去をたずねて止まぬのである。

 思うに、創作することによって或ることを解釈することができる。私にとって古であることが、頭の中でいま想起される。言葉にしがたい或る印象をまとっている。それに対する解釈を私は述べる。

 

 幸福の話をしよう。

 私は親が一軒家を所有しており、子どもであるところの私は一人っ子である。同じ門構えの内に、父方の祖父母の家も建っている。この祖父母は地主だそうである。

 中学三年のころ、或る女子から言われたことがある。

「君の家は余裕ありそうだよね。お母さんたちはハワイに旅行に行ってるし、君は二十五万する楽器を買ってもらってるし」

 その通りである。

 高校一年のころ、バイト先の店長から言われたことがある。

「君は良いなあ。欲しいものは親に何でも買ってもらえて」

 その通りである。

 尤も細かい矛盾はいろいろある。私の家は両親が毎晩酔っ払う。酒をのんで仕事の悪口を喋っている。折り合いのよくない人物に対し、こうして遠くに居ながら快く罵倒している。罵倒は地域の知り合いに対しても及ぶ。私はこうした大人たちのようすをずっと嫌に感じていた。そして、本来人品を年齢幼き者よりも高くしてあるべき人びとに、このようなふるまいの見受けられることは、偽るべからざる現実として私の目に醜く映った。こいつらは当時三十代、四十代という年齢にあった。私は十代であった。こうした食卓をともに囲む苦しみは、私をして次の思想に覚醒せしめた。

「二十代で結婚するのは早すぎる。まだ人として成熟していない内に子どもに接するはめになる」

 それにしても、とかく勝手の分からなかった十代の私は、こうした食卓からのがれる術を知らずにいたのである。変にまじめで、しつけがよく、親とか目上の者に対して甚だ従順であった。

 私は欲しいものを何でも買ってもらっていただろうか?当時の店長はウワサだけ聞いて恣意的な解釈をおこなっている。彼からそしりを受けて私が思ったことを述べると次のようになる。

「俺は本当に欲しいものなんて何も手に入れていないのだ。それなのに、又聞きで表面的に俺のことを知っただけで、甚だ悪く取り、しかもののしるとはいかなる卑しき人格から出た言葉であろうか」

 中学の部活の顧問は暴君だったが、百人ほどいる部員を束ね、しかも人から尊敬されていた。私は先輩部員たちを尊敬していたために、その先輩たちの尊敬する対象であるところの彼を、当然に尊敬することができた。

 しかし、高校のバイトの店長はいつも言葉が汚い上に人品が卑しく、私は彼を全く尊敬することができなかった。

 彼は自営業で小さい居酒屋をやっていた。高卒だった。そもそも私の地元は地主の子が多い。この居酒屋の資金も、店長の実家から出ていただろうと私は想像する。そういう働き方をしていたために、彼は本来自分へ向けられるはずの嫌みを己よりも若い者、私へ言うことによって発散していたのだろう。

 私の母も自営業で、幼児や児童の通う絵画の教室に勤めている。そしてこの地域には、自営業の人びとが協力して町をもりあげようとする奇怪なコミュニティーが存在する。そもそも、私の母が居酒屋の店長とここで知り合ったことにより、母を介して私がバイトを始める仕儀となったのである。

 当時の自分に対する私の怒りを述べると次のようになる。

「なぜ、やりたくもない接客のバイトに勤めるのか」

 当時、私は自分がこういうこと、つまり接客のバイトをするような人間であると考えていたのである。

 私はミスの多い従業員であった。いやになって半年でやめた。そもそも高校が進学校で、校則ではバイト禁止だった。最初から、こういう余計なことはやる必要が無かった。私は十六歳にしてすでに焼きが回っていたのだ。中学時代を終えたあと、自分がどういう人生をおくるべきか分かっていなかった。

 中学時代の思い出すべてに対し、n-bunaの詩、「花降らし」を贈る思いがある。

「花びらの落ち方にだって/あなたとの思い出があふれる/うるさいくらいに私を覆う/それをあなたに教えないと」

 すべてが終わった二〇二〇年の三月、私は仲間たちに対して別れのあいさつさえ言わなかった。それは先輩たちの居なくなった二〇一九年の際にあっても同じであった。言葉は何でもよかった。だから何か言っておけばよかった。なぜ教えなかったのか?天の邪鬼?まだ私が幼かったから?わからない。

 今では、仲間との懸隔がある。私が山奥に住んでいる問題と、長らく離れて過ごし、かつて別れを惜しみ合うことに私が加わらなかったためである。中学を卒業して六年以上経っている。

「あなたの葬式を見た/なんてことのないアイロニー/形だけ何か述べて通りすぎゆく」

 私は死んだことと同じである。仲間はみな死んだことと同じである。

 私は先輩たちの卒業式で、在校生による合唱のピアノの伴奏を弾いた。もう曲の名は忘れた。

 私はクズである。

 二〇一九年の秋、私たちは三年生で、最後のコンクールに出た。バスに乗って帰って、もう遅い時間に学校で解散した。みなしばらくそこへとどまって語らっていた。泣いている者もいた。私はこの人らに喋りかけずにしまった。今の私は甚だ後悔している。

 そうなった理由は分かる。私はいつもぶあいそうだったのだ。それが二〇一八年の秋からそうであった。私は同級生に対して心をひらけずにいたのである。或る同級生は私のことを指して言った。

「先輩と居る時だけテンション高い」

 その通りである。

 私は部内にとどまることさえ怪しい存在となっていた。それが三年生の時期であった。しかし、私は頭で殆ど仕事と感じていたし、これまで二年やってきた蓄積もあるから、とかくやめる所以をどこにも見つけ得ずにいた。ところで、部活は大会へ出るに当たって、優秀な者を選手にする。しかし、私の居た部活はメンバーが一人でも欠けると、曲に必要な音が無くなって甚だ困る仕儀であったから、基本全員が選手である。或る意味では、特殊な環境だった。そこで私は必要とされていた。ますます辞する理由が無かった。

 そこで私は知っていた。同級生がみな私に対して優しいことを。

 かならず三年間をともにする以上、仲よくしない理由もない。同級生たちは私に対して積極的に喋りかけていた。私はぶあいそうで、可もなく不可もないふるまいばかり、この人たちに返していた。これをいま思いおこすと甚だ後悔する。当時は私は内面に重たいものをかかえていた。以来、私は私に対して関心を持ってくれる人や、仲よくなろうとしてくれる人に対して冷淡に接することを、全く不変の習慣とした。最も愛するべきだった人びとのことさえ無視したのに、新たに知る人びとを受け入れることなど出来るわけがない。二〇二〇年の三月に仲間と完全に別れてから、私の生活は変わった。あの中学校へと通わなくなっただけではない。あのメンバーとあの場所で会する機会を永遠に失ったのである。

 では、私は不幸になったのだろうか?

 私は衣食の足りている者を不幸であるとは感じ得ない。しかし、現在の社会、なかんずく私のいま属している日本の社会にあって他者とともに生きていく幸福は、人の衣食をして足らしむることの努力と達成とに限らない。現在、人間の作っている社会は、人類が経験してきた歴史の中にあっては甚だ異質なものを有している。それには人間の層を以て別とするところもあるだろう。高校を出てすぐに働く者もいる。職業によって生活が異なる。人それぞれ違う人間関係の中を生きている。

 言うまでもなく、私は特殊な人物である。かなり問題のある性質を有している。

 それは過去に経験したことの記憶を指すわけではない。記憶の力で今のような形へと変えられてしまった私の性格のことをさすのである。記憶じたいは情報にすぎない。問題は、私が今後を幸福に生きて行ける気がしないことである。なぜ幸福になれないかといえば、私が他者にしたしめないからである。

 

 中学時代、部活の仲間にかわいい女の子が多かった。彼女らはなぜか私に優しかった。

 仮に彼女らが現前でなくてフィクションであったなら、私は何の後悔も生ぜずにすんだだろう。

 思春期に美少女から優しくされたことは、そのあとにおける成人後の私の性質をおかしくした。つまり、脳が彼女らの声や笑顔に依存しているのである。思うに、社会に存在する、ジェンダーの問題ともいえる。どう考えても、私のようなクズに対して、時としてふさわしくないほどに、あいそがよく、情愛こまやかな態度で接してくれる女の子が居ることはおかしい。対等でないし、私に釣り合わない。

 しかも、私がこのようにして彼女らに遠慮を覚えること自体、本当は無限に彼女らの愛撫を求めているのである。私の理性は現実を観察して、彼女らに対する遠慮を覚えるのだが、それは私の本能がやはり彼女らを求めているからである。どうすれば釣り合いが取れて、彼女らからもっと愛撫を享受することができるのか、心の底から知りたがっている。そうして知る由もない。彼女らは単に人品が高く、なぜか見た目が美しく、誰に対しても思いやりが有るだけなのだ。もともと私は、彼女らのような出来のいい人間と同じ空間に居る資格が無い。本当は同じところに居てはいけない。

 しかし、そういう種類の資格を判定する制度は、どうも現在の日本の社会の中には無い。明文化されていないだけで、さまざまな条件がそろわなければ起こらぬ奇蹟として、クズでも美女から愛されている気持ちを錯覚する時が来るのかもしれない。

 なぜ人間は美を知覚するのだろうか?

 醜い見た目をした者から優しいふるまいをされるよりも、美しい見た目をした者から優しいふるまいをされる方が、人は喜びの度合を大きくするものである。これは考えてみればおかしな現象である。つまり、人は他者の見た目が美しいことに特別の価値を置いているのである。いや。これは己が独自に発見したことであろうか?私の性質が卑しく愚かで、邪悪だからこそ、こうして異性の見た目の美しさばかりを好むのだろうか?それは健全ではない。相手がどんな人であれ、自分に優しくしてくれる場合、それは平等に感謝すべきことであるからである。私は異性の見た目を判断の内に入れてはいけない。

 ああ。本当は私は見た目や声、身ぶり、言葉に好ましいところのある異性をすべて欲しているのかもしれない。私の頭は彼女らを知覚する喜びに依存しているのかもしれない。

 健全な人は食欲を善く満たしている。睡眠を善く取っている。人間関係の喜びを享受している。

 私は健全ではない。全く言いたくないことだが、私のようなものは死んだ方がよい。

 予定が有る内は死ぬことができない。今は車校にかよっている。来年の就職はまだ決まっていない。

【短篇小説】グレーゾーン

 或る時期なんだか雨の日が続いて、太陽が出たと思ったら既に秋であった。私はそのことを朝食を購いに並ぶ列の中で聞いた。広く大きく石の敷いてある上に私たちは居た。時刻は八時、今年で二十二歳の私は詳細は言わぬのだが甚だ自適に暮らしていて、自適である内にも必ず通うのがこの朝食の列である。すがすがしくさっぱりとした全く白い光を水たまりの上に受けて、光を前にしている朝食の列はまさに今おきている温もりの話をしていた。別にこれに私は関心を持つわけではない。第一この内の誰とも付き合いというものがない。見知らぬ人びとである。しかし近くに立つ人びとであるから注意は払う。そこで影響を受けて私も天気のことを考えるに到る。

「これほど雨あがりに晴れることはいつぶりだったかな?」

 なるほど同じような空の変わりばえはかつて見たかもしれない。とはいえ何度見たものであるかを措いて、見た内で最も印象に残ったものをこそ私は記憶しているだろう。

 とかく考えている内に列は進んで行った。その先には屋台が開いてある。ふつうよりも安値で米やパンが手に入るから頗る盛況を呈するのである。しかもすぐに売り切れるから朝早くに来なくてはならない。食物は日がわりである。今日は何が出るのか?私はさっき考えていたことを全く忘れた。

 

 路上で食事をすましてゴミ箱から立ち去った後、私は町の中をとおりすぎて或るたかどのへと進んで行った。歩く内に道に沿うて建ちならぶものはさまざまな形の民家である。朝だから学校の児童や生徒がそれぞれの戸口から出てくる。子どもだから車には乗らぬのである。私の目ざすところは、たかどのの最も上に設けてある屋上であり、町の人びとのようすをながめ楽しむためであるが、こういう、授業を受けに戸口から出てくる者らは私の生活を知らぬのである。代わりに私よりも若い。もとより私は若いが私よりも若い者がある。彼らと同じ年齢だったころの私は一たい何をしていただろう?私は明らかに思いだすことができなかった。この欠陥はどうも私にとって好ましく思われた。私はたかどのの前に到着した。

 たかどのはやはり石を積んで出来ている。石は硬いし燃えないからよく使われるものとみえる。石の内に人の通ることのできる穴があけてある。その前へかけて石だたみが連ねてある。こうして到る道は手前へヤブをきりひらいて貫いてある。細く長い道である。道の入り口はひどく狭くこしらえてあり、この辺りまでやってくるとさっきまで建ててあった民家の連続も絶えている。路肩に低い仕切りがめぐらしてある。仕切りの先は何も見えないから何だか分からない。物を落としたら帰ってこないだろう。ただ雨あがりのところへ太陽がさすので、光が像を作って、たかどのへ到る石だたみの左右へ怪しく乱れているヤブを映している。私は殆ど直線である石だたみを歩いて行った。

 たかどのの入り口の前に番人のような女が立っている。私は違和感を覚えた。彼女は私とそう差のない年齢とみえるが、殆どさっき寝床から起きて出たようなゆるい恰好をしている。かつて私は深夜のコンビニへ菓子を購いに入った際、こういう寝巻きの女を見たことがある。どうして覚えているかというと、やはりわが身に近く存在していて私の注意を買ったからだ。こういう時、私は相手の顔を見ない。体の方にも視線を向けない。ただ居るなと感じるだけだ。しかし自分と同じだから少し好ましくはある。何だか面白い。或る時はコンビニに居た寝巻きの女が私の存在に心づき、右手をおどらして見せた事も私は経験してある。彼女は手を握って拳にし、拳が人間の頭であれば人間が頭を無理なく振っているようにして動かしたのである。実際の顔の方は私とは逆の側へ向けてあり、そのまますぐに商品の棚の角を曲がって私からは見えなくなった。この手の動作は珍しく、印象に残り、今となっても思いだすことができるわけだ。そして、たかどのの壁にもたれている番人はうつむいてスマホを操作している。コンビニの方とは別の人間だろうと思う。彼女は何者だろう?

 まるでいつもこんな感じであるかのように動じることなく近づいて行った。すると彼女は顔を上げて私を見た。私は気分を害した。何か状況が下品に感じられたのだ。それで思いだしたのだが、昔から私は他者との会話や取り遣りに直面するとまず不快を覚え、その次に、今おきている事を不快であると断じるに足るだけの原因は無いか脳内に問う。それからおのずと自分の不快であるわけが分かる。こういうようにして、私を見ている彼女は何か下品であるとの解釈を来してしまった。

 彼女は私を止めた。このたてものには入れないというのである。私は己じしんを弁解した。

「上にのぼると高いところから町をのぞむことができます」

 私がこう言うわけは、町を上からながめて魂の休息とでもいうべき時間を過ごしたい意志を伝えるためである。もとより、私は自由という状態にある。これは現在へ到る私の人生が然らしめた結果であるから、その長い人生の内容が明らかでない内は、私が今こうである所以も明らかでないといえる。そういうよくわからないことは触れなくてもよい。とかくに町が見たい。いったい自分がどういうところに居るのかを知りたい。尤も、目で見て知覚したあとのことは当然どんなものか想像できない。

 彼女は斜に顔をそむけて前髪をいじり始めた。指先は細く小さく据わった。そして言った。

「どうしてそういう無意味なことをしたがるの?帰れよ。気持ち悪い」

 私は驚いた。実際私は無意味であり、帰れと言われたら帰るしかないのだ。それに先刻彼女を下品であると判じた私の認識はどうなる?身なりの多少ひがんでいそうな若い男性であるばかりの私であるが、一般的の明るい色をしたシャツを着ており、生来ある顔つきや背たけを除けば怪しいところは殆ど解消してあるので、ただここへ歩いてやってきた程度の関係で彼女を怒らせるはずはない。私は言った。

「あなたは下品ですよ。そのわけは、わたしが今と似たような事をどこかで体験して、ちょうどあなたと似たような人を下品と感じたからです。心を感じるに所以は不明です。ただ下品だから下品なのです」

「それならあなたが気持ち悪いことも絶対だということになりますね?」彼女は目をふして言った。

 私は仕方なくきびすをめぐらした。もとより向かうところなど他にないのだから大いに困った。

 

 また民家のならぶ中を折れたり曲がったりした。想像どおりのつまらない道しかなかった。娯楽のない私はとかくにぶった斬られたわけである。そもそもあの暴言女は何だろう?恐くて逆らえなかった。

 こういう時は友人を頼ればよい。スマホに連絡先が結構ある。四名へ相談してみた。

 なんだかおかしな事が起こった。相談として送ったメールは「異性はなぜ暴言を使うか?」という語をもって聞いたのであるが、メールした先の四名それぞれへ私は同じ一文を遣ってしまったのである。少なからず自分を責める気持ちになった。私は自由だが罪悪感は有る。

 この件について遣り取りした四名とのそれを述べると以下のようになる。

 

 竹井は中学で同級だった男で、私が思うに常に他者を見くだしている。私は彼の好ましい部分をずっと感じとれずにいるのである。たしか一人っ子でゆとりのある家の子どもであった。生来ずるがしこく、大抵は助かって渡っていける境遇にいすわり続けたために、傲慢に育ってしまったのだろう。

 彼は私に対して長文を返してきた。おおかた退屈していたのだろう。どうも人に劣った人物である。

「そうか。恋しているんだね。いや。恋でなかったら申し訳ないが、単に異性から暴言を受けることだけに関すれば、少しの間耐えるだけでよい。君は基本強いもの。そこを敢えて僕へ尋ねてくるわけは、いささか戯れの向きをふくんでいるところにある。したがって恋に近いのだよ。君は僕の友人だ。僕は恋に関して面白い見解をいくつか持っている。その全てを君へ教えてやるわけではない。君でも分かる内容のことしか言わないし、分からぬことを言ってもむだになるもの。君、友人の言葉に感謝しよう。

 結論からいうと、まず恋というのは人へ明かさないところに価値が出てくるのだよ。

 君は僕へ明かしてしまったし、しかも僕が勝手に君を恋だと解釈してしまった。君は黙っていればよかったんだよ。うかつに明確でない語をメールしてきたせいだ。それで君は恥をかいている。僕は君が何か恋しているのだと解釈してしまったよ。そうして君をはずかしい奴だと感じる。

 くりかえすが、恋は秘めておいた方がよい。僕の意見である。恋するふたりだけが共有しているところに喜びがともなってくるのだから。まあ経験のない者でなければ分からぬ話だがね」

 竹井に対する私の感想はさまざまである。彼の文体がすでに何か変わっているが、さすがに形式的のことであるし措いておくとする。怪しむべき点は、彼があたかも人に暴露しない恋愛を経験しているかのごとく述べている点である。彼は女から認められるたぐいの性格ではないのだ。

 竹井が最も異常だった例をいうと、中学のころ教室で殴り合いをしていた話がある。小学校の時点ですでに人をよく殴る習いであった。ただ、私は彼の友人だから、十五歳の夕暮れの帰り道、毎日の授業に疲れた頭で彼とこんな会話をした。私は言った。

「俺はまあ賢い方だよ。無益だがね。お前が人から誤解されてるくらい察しがつく」

「俺と頭のよさでも競いたいのかね?会話をして」

「いや。この道は遠くみとおせるからお前が見えただけだよ。一人で帰ってもつまらないだろう?それにお前が誤解されてる件を証しておく進歩もある。喋る必要なんてそれくらいでいい」

「何事も原因と結果とを捉えやすい活動にしか敢えてとりくめないタイプか。俺はお前が好きじゃない」

「嫌いな奴どうしでも会話くらい可能だよ」

「お前も俺のことが嫌いか?」

「悪いウワサばかり立ってる人間に対して好感は抱きがたいな。誤解でも何でも甚だ不吉だもの」

 まあこういうような会話であった。内容はさらに詳しくどういう誤解があるか彼から聞いた。

 彼の異常である点は給食の際の放送で気持ち悪い歌詞の曲をながして教室をだまらせたこと。甚だでかい声でわいせつな種類の話題を教室にいて喋っていたこと。学校へたまにしか来ない不良とわけへだてなく喋っていたこと。どれも人を不快にする行為である。彼のことを怪しませるふるまいである。

 しかし、私は彼の友人になってしまった。私は幸いと感じ得ない。

 まことの意としては考えたくもないことだが、ここで彼と友人であるゆえんをつまびらかにしておく。

 彼はどうも禁欲的らしいのだ。それも欲望の多くを抑えている。抑えてはいるが人間であるから、あたかも欲望が全く無いかのように見せつける傾向があるにすぎない。そうしてそのように見せつけることを欲望しているのである。結果変わった奴であるとの評価をこうむる。学校の誰しも彼を一定でないと感じる。よくわからない奴なのだ。断言できることは自分に関係する人物でないことだけだと誰しも判断する。彼はこうして孤立する。思うに、彼が悪いのである。欲望が無いように見せれば、当然他者とかかわることに対しても欲望が無いように感じさせる。ここにおいては、彼が認識を操ることのできない相手は居らぬのである。みな彼を無関係の人物と解釈する。尤も彼が意図して他者を操っているのか、意図せずとも彼の場合おのずと周りがそうなるのか、私の知ったことでは全然ないのだが。

 他方、私は彼と似たような性格をしている。それは道徳に関して高い理想を持つのである。彼が己の欲望を内面無きがごとく扱い、全ての欲望において同じくしていることは、私で言えば私が常に道徳の罪を犯したくないと考えていることと一おう一致する。彼は欲望すべてが罪のもとであると見なしているのだろう。私はそれが分からなくもない。仕方ないと思う。

 ただ彼は人を見くだしているようだ。彼をかえりみる際に第一に気にかかることである。たぶん彼からすれば誰しも欲望に逆らうことなく酔いしれていて下品とみえるのだろう。

 いろいろ語ったが、まあ彼は結局は人をみくだして道徳を犯しているのだ。内心で人の目に映らぬといっても人をあなどることは罪であろう。それで邪悪である。とはいえ彼ほど禁欲の努力につとめていてなお邪悪の要素を生じているのである。私もまた彼のごとく邪悪を何か生じているはずであるし、こうして彼をそしっているあいだ私じしんの問題点の方は棚に上げてあったと私は想像する。

 さて、私が彼と友人であるゆえんについては、つまりたまたま似ていたからだろうと思う。

 今日は彼へ連絡を送って連絡が取れた。意外だった。彼とは長らく付き合いが絶えていたのである。

 

 メールを送った二人目。渡辺だ。中学で同級だった男である。ついでに言っておくが今回メールした四人は全て中学の同級である。他の所属の知り合いもいるが今回は連絡しなかった。

 渡辺はおだやかな性格で、私による「異性はなぜ暴言を使うか?」という相談に対し、ただ「彼女のコンディションが悪いのではないか」とのみ返してきた。私の語に対して甚だ妥当である。私が聞いた中から全く逸らしていない。創意ある返事であった竹井とは全く違う。しかもやさしい心くばりがある。

 渡辺は歳の離れた兄がいる。父親が若い。たぶん若くして子を持ち、堂堂として親であることを可能とするような、人づきあいや他者を頼ることを得意とする親なのだろう。兄がいるのもよい。兄がいるとたちまわりを学ぶことができる。渡辺は友人の多い男である。異性とも同性と同じように接する。

 メールを送った三人目は本間だが、彼からは返事が無かった。私の一文に既読の印さえつけなかった。単にもうつながらない携帯に換えたあとなのかもしれない。

 ただ、本間に関してついでに語っておく。彼はどんな親族を有するか不明だが、十五歳のとしに渡辺にしつこく粘着していた。毎日まとわりついて、ネット上で渡辺へ送った文章はグロテスクな様相を呈する気持ち悪い内容ばかりであった。私の想像だと本間は父が渡辺のような穏健な人あたりを有していて、自分はこの父にむかって毎日の夜を世の中の嫌みや憎しみをはきだして過ごす母と同じ性質を発揮して、だらしなくなった自制心から出る汚い中身を渡辺へうちあけていたものととれる。本間、こいつは私にとって特に印象をのこさぬ人物であるが、印象をのこさぬなどと軽くもてなすことができるのももとより彼がつまらない人物だからである。彼は何か自分の過ちに気づかぬ嫌いがあった。

 彼のような人間がいるものである。彼は学校でいやなことがあるとすぐ渡辺に泣きつくのだ。渡辺の側はもとより穏健であるから、本間の依存に関して別の友人にいつも相談していた。友人が何人もいて本間の異常であるところが誰にも知られていき、結果私もこうして覚えているのである。

 まあ、本間からメールの返事が来ないのは私と気まずく感じるからであってもおかしくない。彼の側でも自分の異常であるところが人に知られていることは悟ってあるだろう。だいぶ年月の経ったあとであるが、やはり恥ずかしいだろう。昔の彼であれば恥の感情じたいが甚だ薄くしかなかったが、こうして大人になってみると古い行いが相当内省してあるだろうことは察することができる。

 なお、本間についてそしるばかりでは何かうしろめたいから、少し弁解しておく。本当はこれほど短い文章では本間と渡辺との関係をいいつくせないことである。まあもとより私の存ぜぬ事情が彼らの間に存在しているだろう問題もあるし、さまざまに言葉を加えておくべき段ではあるが、とかくに彼らの場合、大山という第三者のことを忘れてはいけない。大山は美少女で、私のメールを送った四人目でもあり、なぜか本間に対して好意をいだいていたとされる人物である。彼女と渡辺とが予て仲がよかったので、本間は渡辺に対し嫉妬していたようである。しかも大山が実際誰を好いているのか渡辺から聞きだそうとして、毎夜のネット上での渡辺に対する病的な絡みをやめることができなかったのだという線もある。本間は大山が好きでいながら近づくことができずにいたために、代わりになぜか渡辺に対して複雑な気持ちをいだきながら依存していたとするわけである。

 こうしてみると、全く竹井であれば欲望を有せぬゆえに初めから成らずにすんでいる状況である。大山は私のメールに対して答えるに、暴言であれば暴言が出るだけの感情が背景にあるとのことであった。中学時代の友人らはこうして竹井とそれ以外とに分かれる。竹井だけが徹頭徹尾感情というものを超越しているのである。厳密に言えば、竹井にも感情を解する言動は有るが、どうもひねくれていてやはり本当は無いかのように見える。しかも現に中学時代は何者ともつかぬ評判であった。私はたまたまこの四人を記憶していて友人とするが、中でも最も極まった個性を有していた人物は竹井であると考える。

 では私は竹井を高く評価するか?それはしない。第一彼は幸福でない。人は自分で安んじる位置に心を据えなくてはだめである。彼は彼で勝手にみちたりているかもしれないが、私の目から見ると何だか敢えて倒錯している気味があり、全くマネしたいと思えない。彼の幸福は何であろうか?幸福は人によって異なるものであろうか?私は自分の欲望を重視する。他者を害しない程度に重視する。

 

 ひとしきり歩き回ってから、また番人の女のところへもどってきた。たかどのがそびえている。

「やあ。わたしは先刻あなたから暴言を吐かれてもぶちぎれなかったでしょう?やさしいからです」

 彼女は私を無視した。私はおやと思ったが、次の瞬間、彼女が私のうしろに向かってあいさつをした。私は振りむいた。しとやかな若い女が立っていた。お疲れ様ですと言って番人の役を代わった。前の女は帰った。私はよくわからず、じっとしていたが、つまり彼女らはバイトなのだと想像した。

 私は新しい女に対してコミュニケーションを試みた。

「この塔へのぼりたいのです。あ、すいません。いま内心ちょっと面白く感じたんですけど、それはね、わたしはとびおり自殺とかをやるわけじゃないことです。まあ自殺の場合ごまかしてのぼろうとしそうなもんですよね。しかし違います。信じられないかもしれませんが、単にのぼって町をながめたいからです。そりゃスマホの機能で天から見た町くらい映像があるでしょうけど、やっぱ三次元じゃないとね」

 彼女は前の女よりもあいそがよく、別に私はこれにつけこむ気はないが、かなり喋ってくれた。

「資格のある方ならご利用になれますわ」

「え?資格?じゃあわたしここへのぼる人を知り合いの内に存じていますけどみな持っているんですか」

「最近できた制度ですの」

 彼女の側でもどうすれば取れる資格であるか把握していないとのことである。私は絶望した。

 

 私は歩いて小さな公園へと入って行った。さっき居た民家ばかりの道から脇へ逸れて出たところにこの小さな公園は存在する。来た道とは逆の側に重厚な生け垣が存在し、向こうのようすを甚だ怪しくかくしてしまっている。小さな公園の囲いの内にあずまやが存在し、私はこの中へ入って腰かけへおもむろに腰をおろした。生け垣の側へ目をやっても何も無いだけであるから、とりあえず空の上を見た。

 上の方をみあげるのはよい。とはいえ、やはり甚だむなしく空が空いているにすぎない。太陽が出ているだけである。目の前に突っ立つ生け垣よりかは看に入れてもよいと思う。第一ときはなたれている。人間が屋外なるものに対して持つ清浄な印象は誤りではない。空をみあげて縁起をかつごうではないか。

 

 所へ私のスマホに連絡が来た。

 なんと本間からメールが返ってきたのである。私は彼に対し「異性はなぜ暴言を使うか?」と出しぬけに問うた。彼は曰く「異性に関してことさらに内省する必要はない。だんだん浮世離れしてくるから」とのことであった。私はあまり驚かなかった。丁度彼の言いそうな言葉と読むことができたためである。

 

 私はあずまやの中で、空の上をみあげて腰かけていた。

 後ろから声がした。

「後ろから失礼します」

 美声であった。私は振りかえった。彼女は私と背中あわせに腰かけていた。私は立ち上がって回りこみ、彼女と差しむかいになる向きに腰かけた。私は緊張していた。彼女は制服を着ており、高校生と思われるが、私と面識がない。この町に住んでいるのだろうか?どこかで私のことを覚えて私に関心を持つに到ったのだとしたら面白い。私は顔をひきつらせていた。彼女はかわいい顔をしていた。

 彼女は言った。

「わたしのこの体は別人のものです。わたしの意識は或る所属から分離してこの体にのりうつっています。或ることをあなたへ伝える必要がありますから。それに、あなたは見た目のこのましい女の子の言うことばでないとあまり集中して聞くことができない」

 どうも信じがたい話である。しかし面白くはある。興に乗じて、私は言った。

「今朝或るところで女の子から暴言を吐かれましてね。わたしはちょっと驚いた程度でした。本来ぶちぎれてもおかしくない場面ではあったんですが、正直女子から吐かれた暴言ではキレる心持ちが生じてこないわけではあります。同時に彼女がふだん面識のない人物だったために、そういう明確でない人物から言われたことばをまじめに気にかける必要を感じなかったこともあります」

 ふだん私はこれほど喋らないのだが、今日は予て退屈であるから多少気が狂っていて、仮にこういう男がいれば私であれば騒がしいと感じるような口数に増してしまった。私は続けた。

「なるほど憤怒の有無、原因をたずねることさまざまに及ぶと思います。しかし、私が困るのは誤解されることです。たとえば、相手がかわいい顔をしていたから憤る必要がなかったのだ、などと人の見た目で判断されるようなことは甚だ不快に感じます。まあ、なんといえばよいのですかね。なんというか、今まで人生でこだわってきたことは常に中立に立つことくらいですから、どの側にもまことに属することのできないかわりに、中立である状態は崩したくない。永遠にね。だから絶対に相手の見た目で私のふるまいが変わることなどないのですよ。ねえ。あなたが何者だか知りませんが」

 このように、私の言ったことばは変に情熱のあるものであった。ふだん私はこれほど熱くなることがない。今にしても別に熱くなることは当然ではない。ただ制服の彼女からひどく誤解されている気がして、それが丁度しっかりと弁解しておけば正すことの可能である誤りに感じられたためにすぎない。

 彼女は言った。

「でもかわいい女の子は大好きでしょう?」

 彼女は私のことを知っているのだろうか?私がどこかでウワサになっていてそういう解釈をこうむっていて、彼女はこれを根拠に喋っているのかもしれない。すでに私は自身の中立という本質をつぶさに述べたところである。私は己の性質に関して偏りある部分、即ち人の見た目とか顔とかに対する好みということを他者へ語る気が全くない。どんな人が大好きであるか、私は誰に対しても語りたくない。

 以下のような会話が有った。私は言った。

「むしろ身なりが尋常であるとか、清潔にしているとかいった常識的のエチケットに関してそうである意味でしかそうは言えないと思いますよ。だいたい恰好を整えてあると美しく見えたりさっぱりとして感じられたりするわけですもの。逆に汚い恰好が間違いに感じられない頭をしていたら、常識的の認識をそなえていないわけですから大変です。そんな人は社会の内に居場所を失ってしまいます」

「あいかわらず弁解ばかりなのですね。そもそもわたしの現れるゆえんはあなたが作ったものなのですよ。社会の内に居場所が欲しければ、まず天使のように現れる誰かを手づるにしなくてはなりません」

「天使ですって?」ひどく新しく且つ旧式の空想に聞くような語に私は心をひかれた。

「とりあえず現在のあなたのおかれている状況から詳らかにしないわけにはいかないはずです」

「状況ですって?それはまさか、私が中立であることは私が自適に暮らしている二十二歳であることにのみ由来することであると考えるのですか?これまで生きてきた私の人生のむすぶ答えの一つとして、私の精神の努力は全く中立たることに限って注がれてきたのであるとは考えずに、むしろ私が自適に暮らしているモラトリアムの期間にあるからこそ中立を尊ぶ頭に到っているのであると考えるのですか?」

「モラトリアムなんて概念は必要ありませんよ。あなたの今日の用事から答えてください」

「全休ですが」私は正直なところを教えた。

「それがわたしの名前です」

「名前ですって?」

「わたしは全休といいます。あなたのいう全休じたいがわたしそのものなのです。代わりに今日という日が終わればわたしは消滅してこの体は持ち主へと返されます。どうも持ち主の方でも今日は全休だったみたいですが、わたしに憑依されてしまって、一日やすみを潰されてしまったのはさすがにかわいそうなものですね。しかし若い人の全休なんて白昼夢のようなものにすぎません。このひとたちは時間をどのように過ごしたらよいかなど知らないのですから」

「わけがわかりませんね。なぜあなたが全休なのですか?全休とはつまり概念であって、何か意識を有する主体ではありませんよ?」

「あなたは久しく概念と結婚してあります」

 私は軽快に笑った。そして言った。

「概念とは結婚できませんよ」

「説明してあげます。人間はみな結婚をする。したがって頭の中が概念に満ちている人は概念と結婚してあるのだといえる。このようにして、同じ人間とは結婚していない人物もまた存在しているのである」

「概念との結婚ですか」私は考えた。そういえばこのごろ人づきあいが全くないことに思い当たった。

 つまり結婚につながりそうな人づきあいは私は殆ど有せぬのである。誰からも助けてもらわずに暮らしているわけでは無論ない。社会や他者に対する恩くらいのことは感じている。

 長らく有害な観念に私は捉えられている。それは全体が不明であるが、ありのままに言えば僻みのようなものだ。どうも他者に接する際あらさがしが始まる。誰しも私をおとしいれようとしているように私は感じる。常にそういう悪い気持ちに追われているのだ。

 オタクの最終形態のようなものである。フィクションの中で何か具体的なコンテンツを愛する趣味にオタクという名がつくとすれば、私は特定のコンテンツを愛するオタクでない。最終形態と称するのも誤りであろう。オタクは己の人生を変えるほどに心のひかれるものを有している。他方、私はすべての他者を警戒しているだけである。

 しかし、私には友人がいる。友人でなければ何であるか分からぬ者らが存在している。

 全休を名のる制服の女は私とさしむかいに腰かけている。私は言った。

「全休さん。あなたは確かにわたしの退屈な休みの日の象徴です。見た目は美しいですが、わたしと全く関係のない所属であるところの女の子にすぎないですからね。わたしがあなたと関係しようとして、何か手を打ってみたところで、全く無意味、全く得るところのないことはだいたい予想できます」

 私はにやりと笑い、相手の理解不足をあなどる心持ちになった。そして続けた。

「しかしね、あなたに勝る才能が一つわたしには有ります。それは、ふるき友を忘れずにいることです」

 

 私の友人であるところの竹井、渡辺、本間、大山の話はすでに述べた。みな中学の同級で大山だけが異性であるが、この四名は中学の同級が他にもいる内から条件なく挙げた手合いにすぎない。予て私は同性ほど異性とむつまじく接することのない傾向があるが、そのわけはいまだ明らかになっていない。とはいえ異性の友人は大山以外にも数名おり、異性だからといって付き合いを拒むことは全くない。

 私は全休を名のる制服の女をみくびり始めている。彼女が一体なんなのか、どうしてここへ出現したのか、いろいろ分からぬことはあるが、既に多少おしはかってある。恐らくは私に対して注意をしにやってきたのだ。ぼんやりと過ごしている私を、これから幾らか掛けて、抜本的にたたきなおしてやろうというたくらみなのだ。このように読んでみると彼女のことが哀れになる。なぜなら、私は人からたたきなおされることなど全く必要としていないからである。わざわざ彼女は美しい恰好をしておとずれてくれたわけだが、これも気の毒になる。まごころをこめて人に接しようとする際、その志から出る現前における努力が見た目の強化という形で出てくる女ほどかわいそうな存在はあるまい。果たして、女という生き物は見た目をかざらなければ魂のぶつかりあいさえ成しえないものであろうか?男であれば、心をはだかにして付き合うことくらい、寝癖のついた髪でも可能なものである。以上いささか差別の如く悪しざまに訴えはしたが、もとより相手の制服の女は出どころが分からぬ上にどうも私に対して失礼と感じさせる人物である。そういう発言を既に私に言った。私は彼女に対して控え目にしなくてよい。

 彼女は私の友人のことを知らぬのだ。私はこの友人らを思う時、自分がどういうプロセスをたどって生きてきて、どんな人づきあいをして人間を学んできたのかを明らかに解することができる。それだけ友人らは私の精神に影響をおよぼしている。今に到るまで厳然たるものである。このようにして、今いる私はわが身ばかりは孤立して存在しているにしても、中身の側は全く単体でない。昔の友人と深く濃く関わり合っている。私はこの自己を誇りに思っている。それだから一人でいて弛緩することがない。

 彼女に教えてやる必要がある。私は今朝友人らに連絡して四名から返事が来たことを語ってやった。彼女は相づちを打って聞いていた。そのようすにいかにも彼女の心の落ち着きが見られたので、私は少し違和感を覚えた。彼女はなぜ動揺しないのだろう?いま私は新しいことを語っているのである。全休を名のる彼女は己の認識を改めつつあるはずであるに、どうして驚く反応を見せないのか?いや。私は彼女を根負けさせようとしてこれほど頑張っているわけではないのだが。

 以下のような会話があった。彼女は言った。

「馬鹿にしてるじゃないですか」

「え?」

「ご友人の方方みんな馬鹿にしてらっしゃるんですね。しかも好きでも嫌いでもないんだ。あなたはその人たちのことをそしるばかりで、たまに肩を持つのは、あなたが自分を落としたくないからで」

「この中では竹井は人をみくだす癖のある男でした。しかしそんな男とのつきあいでわたしも人間を学びました。人間には変にクセのある個体がいます。それがしかも誰しもクセの出方が違うだけで、必ずねじくれています。生涯治ることのないものです」

「彼のことが好きですか?」

「嫌いに決まってるでしょう」

「そんなのは友だちとは言いませんよ」

 私は彼女の思想が分からなくなった。彼女はなれあい無くして不可であると友人を定義しているのだろうか?私は友人らに身近でなくなった今でも友人らの言動を確かに記憶している。まるで永遠にそばにいるような思いである。それだから友人らとの関係で自分が何者であるか分かるのである。

 私は彼女のことを全休さんと呼ぶ。私は言った。

「この際もうどんなものを友人と呼ぶか決めることはできますまい。状況から言って場を同じくするものが大抵友人です。全休さんも私の友人ということにしましょう」

 全休さんは私の冗句に対して全くリアクションを見せない。彼女のそういうところは実はかなり好ましい。私は己の口ぶりや身ぶりに対して何らかの規定をこうむるのが嫌いなのだ。彼女が私の冗句を笑えば私の冗句は私の冗句であるということになる。リアクションが出ない内は冗句ともなんともつかぬ。たまたまそういう言い回しが出たにすぎない。私の側でももとより何も狙っていないのだから、多少おかしな言葉づきがあっても無視してもらえたという仕儀となる。彼女はセンスがいいとみえる。

 私は続けた。

「さすがにもう全休さんが何をしにここへやってきたのか告げていただいてもよいかと思いますが」

 思うに、重大な仕事で来たわけではないのだ、本当に。だから聞くことが全く恐くない。

 彼女は言った。

「じつはわたしが現れてあなたと会話した全ての内容はあとであなたの記憶から消えます。しかしわたしは生まれてしまいましたから、こうして命ある内はあなたに向き合うのです」

「わたしが忘れるのならわたしに関わってもあなたはむだに労するだけでは?」

「それはわたしがあなたの全休として、あなたが全休の内に頭の中で考えたことをすべて把握してあるからです」

 これで彼女の意味が分かった。彼女はただの存在だった。私の脳内にあるただの存在すべてと全く異なるところがない。彼女は他のすべての想像と同じようにして私の記憶から消え去る。

 彼女は私の額に手を置いた。そうして口でカウントダウンを始めた。私は黙っていた。

 

 陽が高く上がっていて、真昼になっていて、町は静かだった。私は午前にのぼろうとして不可であった、番人の立っているたかどのへとまた到着した。やはり私は暇をもてあましていたのだ。すると面白いことに、たかどののまわりに人だかりができていた。集まっている者みな若く、運よく好ましいことに全く騒がしい人物がまじっていない。かなり近いところに小中高のクラス一つくらいの人数が居るのだが、その中に私もいて、会話が生じているにもかかわらず、それぞれのことばが全く聞こえない。極めて小さな声で会話が行われている。

 私はたかどのの壁にもたれてスマホをみはじめた。この向きであれば画面を人に見られる心配がない。

 私はつくづくネット上に上げてある情報がいやになる。これほど人間の認識を拡張して人類はどこへ到ろうというのだろうか?ネットは認識は広げるがネットの外にある命の空間は殺している。

 しかし私はネットを見る。どんなものを見ているのか誰にも教えない。

 ネットはつまらない。つまらない手合いを馬鹿にすることが好きだ。自分がこいつらよりもマシだと思える。

 

 この小説にオチをつけないといけない。以下に語ることは私のこじつけである。

 じつは私は今までに知り合った人間をみな倒してしまったのだ。ふつうは知り合った中でも好ましい者とは交際を保ち、然らざる者に対してはなるべく遠ざけるふるまいを為すはずであるが、私の場合はものういから全て遠ざけるようにしている。このようにしてもなお近くに居る者があれば、そういう者を純度の高い友人とすることが可能であると思う。

 二十二歳になって、私は殆ど中立になってしまった。善悪で言えば善に敢えて寄らぬわけだからおだやかでない。自適に暮らすとはそういうことなのだ。正直いっぱいいっぱいである。

 或る日の朝、私は又たかどのの前へと歩いて行った。番人はこの前と同じ暴言女であった。

 私は恐くなってきびすをめぐらした。

 町は秋の魂のような芳香をただよわせていた。スマホを確認したが私あての連絡は何も無かった。

 この日もまた私は道をさまようしかなかった。その中で私はやはり或ることを想像していた。

 

 私は小学生のころいじめられていたのだ。

 四年の時、しきりに顔を殴ってくる男子がいた。二名いて同時に攻めてきた。親に相談したところやり返せばいいとのことで、或る時ひとりを相手に攻撃した。その時彼とともにいた同級が私に対して非難の語を言った。曰く攻撃は今やることではないとのことであった。私はその通りだと思った。しかし体を動かした後だったため、気持ちがたかぶっており、相手の語を奇怪に感じた。親に言われたことをやって否定されるわけがわからなかった。

 五年の時、学級崩壊していて、授業中に騒いでいた者を教員が立たせた。教員は中年男性であった。毎日ぶちぎれて説教していた。その日は私が暴力のいじめに抵抗をし、授業中に席をたたざるをえずにいた日であった。しかし当然私もさわいでいた者として教員に立たされた。教員は立っている者に対して一人ずつ説教した。私は泣いた。自分が悪いわけではないことを弁解できなかった。

 六年の時、同じクラスの女子からボールペンで顔を刺された。傷ができ、私は親から指摘され、正直に女子から刺されたことを伝えた。すると親は相手の子どもの親に電話した。相手の子どもの親は自分の子どもと関係がうまく行っていないことを私の親に喋り、そうして泣いた。次の日、学校で私は相手の子どもに怒られた。曰くお前の親がわたしの親を泣かせたというのである。私は彼女の話を聞いた。すでに卒業式が迫っていた。

 つぶさに述べることが難しいが、小学生のころは大人が甚だ役たたずだった。教員は学級崩壊をおさえることができなかった。親は殴られたら殴り返すことしか教えなかった。

 私が他者について考えることは、もとをたどれば精神を攻撃してくる存在としての他者をいかにして乗りこえるのか、この問題より重要なことはなかった。他者は敵である。

 

 或る長さの期間をこえて、いじめられている状況がつづくと、そういう状況が頭の中に永遠に記憶されるに到る。それほど長い間いじめられていた時期が小学生のころに有った。

 中学生一年のころ、久しぶりに会った小学校の同級が私に言った。

「お前って保健室登校だろ?」

 何のことを言っているのかよくわからなかったが、私は無遅刻無欠席だと返した。相手はなぜか「最高」と叫んだ。今になって分かるのは、この相手が反社会的な性質をもっていたことである。

 反社会的とは、つまり悪である。こうして判じるわけは、私を保健室登校と断じてきたところにある。そもそも私は小学校でいじめられていたことで知られていたようである。そこから保健室登校との推測が出てきたのだと考えられる。私は小学生だったころからずっと常にまじめだったし、いじめにおいて自分が被害をうけている側であると感じていた。では、なぜ被害者が保健室登校でなくてはならないのだろうか?授業に出なければ勉強が遅れて将来にさしつかえてくるではないか。いじめられた上に、社会でまともに生きていく道まで絶たれるなど許されてよい話ではない。

 子どもは勉強で知識を得て成長をし、大人になって労働をし、社会に育まれた身を心をまた社会へ還元しなくてはならない。しからざれば食い逃げである。私はそういう違犯をはたらきたくない。

 いじめを受けて学校に居場所をなくすと、最悪の場合、将来さえ全うできなくなるのである。

【語感 (6/10)】形容動詞100

 「あきらか」。はっきりしているようす。疑いのないようす。

 副詞で「明らかに」というと笑いが取れる。

 「あざやか」。色や形などがはっきりしていて強く印象にのこるようす。鮮明。

 近年はインターネットによって人間の裸体があざやかに映じすぎる。子どもの教育に悪い。

 「あたたか」。あたたかいようす。あたたかいとは、気温や温度が高くてここちよい。

 あまり悪いニュアンスが無い。

 「あでやか」。上品で、はなやかなようす。なまめかしく美しいようす。

 男に対して言うニュアンスが無い。あと人間のルックスに関係する言葉だと思う。

 「あらたか」。神仏の力や、薬のききめがはっきりしているようす。

 神仏は信じられないが薬に関して用いることのできる語であろう。動詞だと「効く」と表現する。

 「うららか」。日の光がはればれとのどかに照っているようす。

 春の季節において言う。

 「おおらか」。こせこせせず、ゆったりとしているようす。おうよう。

 こせこせとは、心にゆとりがなく、つまらないことを気にして落ち着きのないようす。

 「おだやか」。無事でしずかなようす。やすらか。平穏。

 あるいは、おちついていて、ものしずかなようす。あるいは、かたよりがなく、適正なようす。穏健。

 「おろか」。頭のはたらきがよくないようす。あるいは、間がぬけている。馬鹿げている。

 何か気の利いた用法を先日考えたが忘れた。賢いという語に対比される。

 「かすか」。はっきりとみとめられないようす。あきらかでないようす。ほのか。

 先日「三四郎」を読みかえしたが関係は薄いけれども気になる異性に恋する心持ちはかすかであろう。

 「かろやか」。かるいようす。軽快。軽快とは、明るく、心のはずむようなようす。

 誰にも常にかろやかであることは難しいだろうが、性格のかろやかである人物というのはやはり居る。

 「きよらか」。けがれがなく、美しいようす。

 途上国の強制労働で得た先進国の豊かな美少女などを清らかと形容するのは甚だ倒錯している。

 「こまやか」。こまかいようす。

 主要な問題に関連が有ることであればこまやかに把握してある必要がある。

 「ささやか」。小さいようす。こまか。

 この語を的確に用いるために、まず逆にささやかでないものは何であるかを意識しなくてはならない。

 「さだか」。はっきりとしたようす。たしか。

 極めて便宜的な語である。実際には、いろいろとあやふやになっているのが世の中の現実である。

 「さわやか」。気分がさっぱりするようす。あるいは、声などが、はっきりして軽快なようす。

 申し訳ないが大抵嫌みに聞こえる。

 「しずか」。物音や声が聞こえず、ひっそりしているようす。

 大人になってみると分かるが甚だでかい声でさわぐことは自身の人品を落とすし百害あって一利なし。

 「したたか」。つよくて、てごわいようす。

 この語は酒を多く飲む意味でしか使っているのを見たことがない。

 「しとやか」。上品でおちついているようす。しずかでたしなみ深いようす。

 美女を言う言葉の内、最も適切である。これに関しては、たしなみのあるのが一番上等である。

 「しなやか」。弾力があってまがるようす。あるいは、動きのやわらかなようす。

 女子の中にはむだに身ぶりのしなやかな個体がおり、世の人はみなこれを黙って目で追っている。

 「しめやか」。ものしずかなようす。ひっそり。

 笑えるニュアンスの全くない語。

 「すこやか」。じょうぶなようす。すくよか。すくよかとは、健康なようす。

 小中学校で学級崩壊を経験した人間がすこやかに成長することが可能であるか世の中に問いたい。

 「すずやか」。すずしそうなようす。すずしげ。

 客観的な気温とは別に、いま己の体温が低い人というのがいる。朝起きた際などは体が冷えている。

 「すみやか」。動作や進行がはやいようす。

 人間の意識から言って時間がすぐに過ぎることを知覚している意味ではなく物が速く動く意味である。

 「たいらか」。心が安定して、おだやかなようす。あるいは、たいら。たいらとは、ひらたいようす。

 物の名だけで平らかであるかそうでないか分かる場合が多い。たとえば床は全て平らかである。

 「たおやか」。女性の動作などが、しなやかでやさしいようす。

 しかし、その中身の心までまことに思いやり・慈しみの情で満ちている人物はなかなか居ないと思う。

 「たからか」。高いようす。高いとは、基準とする面から上への距離が大きい。

 勢いがあるとかいきいきしているとかいったニュアンスを感じさせる語。

 「たしか」。信用でき、安心できるようす。あるいは、明らかで、疑いのないようす。確実だ。

 大学とかでは確かな文献に拠って研究すべきだとは思うが結局はこれを判定する教員しだいであろう。

 「つつましやか」。遠慮ぶかく、しとやかなようす。

 辞書だと左に「つづまやか」という語がある。意は手短で、要を得ているようす。

 「つまびらか」。事こまかなようす。詳細。

 事をあばかれることよほど詳細に及んでいなければ用いられない語であろう。

 「つややか」。光沢があってうつくしいようす。光沢とは、表面のつや。

 子どものころガンプラに入れこみ、塗料について調べたことがある。

 「なごやか」。けわしさがなく、したしみが感じられるようす。

 したしみやすいのはいいが、大抵この手のものは深みがなく薄っぺらい。

 「なだらか」。順調なようす。おだやか。あるいは、傾斜がゆるやかなようす。

 傾斜がゆるやかであるというのは、女性の肩とかを指して言うと結構いいと思う。

 「なめらか」。すべすべしたり、また、つるつるしたりしているようす。

 あるいは、よどみがないようす。「なめらかに話す」

 「にぎやか」。人や物があつまり、活気のあるようす。

 しあわせなことば。

 「にこやか」。にこにこしているようす。にこにことは、声を出さずに、笑うようす。

 人によっては表情の裏に甚だ嫌みがある。あと全然楽しくないのになぜかにこにこしている人もいる。

 「のどか」。おだやかでしずかなようす。のんびりしたようす。

 大抵刺激が足りなくていらだちに変わってくると思う。

 「はなやか」。美しくきらびやかなようす。あるいは、盛んでよくめだつようす。

 めだつくらいだったらまだ地味な方がよかろう。ただし、何か指して地味というと時に失礼に当たる。

 「はるか」。距離・時間・程度がひどくへだたっているようす。

 現物中最もはるかであるものは空であろう。心とかは目に見えることがなく、距離もよくわからない。

 「ひややか」。つめたいようす。あるいは、思いやりのないようす。冷淡なようす。

 儒教の仁という字に思いやりという意を存することから考えると、それを欠くことはおだやかでない。

 「ふくよか」。ふっくらとしてやわらかそうなようす。ふくらか。

 中学のころ部活でトロンボーンをやっていた。楽器の音色をふくよかと形容することがある。

 「ほがらか」。さわやかで、明るいようす。心にこだわりがなく、はれやかであるようす。明朗。

 ほがらかな女子は貴重であるが、嫌みのないことが条件となる。まあ男でも同じことだが。

 「ほこらか」。とくいそうなようす。とくいとは、ほこらしげなこと。

 誇ることは全然悪いことではない。自信は人を勇ましくする。ただ虚栄まで行くと誠実でない。

 「ほのか」。はっきりしないようす。かすか。

 なんとなく文芸的な印象のある言葉。しかし、敢えてほのかであるとする具体的な理由が必要である。

 「まことしやか」。いかにもほんとうらしいようす。

 ウソとかホントとかいった語をみると連想で物語シリーズの恋物語(アニメ)を思いだしてしまう。

 「まどか」。まるいようす。まどやか。あるいは、おだやかなようす。円満。

 岑参の詩に異郷へ来てから二回満月を見たという語がある。

 「まろやか」。まるいようす。あるいは、口あたりがおだやかなようす。

 母親が飯をつくっていた家庭であるが、その味は全くまろやかではなかった。

 「やわらか」。やわらかいようす。やわらかいとは、ふっくらしていて、押すとへこむ感じがする意。

 中二のころよく触れてくる同級の女子がいて、肩をさわり返したらなぜか嫌な顔をされた。

 「ゆたか」。みちたりて不足がないようす。あるいは、たっぷりあるようす。豊富。

 辞書に従えば単に量が多くあるという意味である。するとその質に関して言う具体性の無い語である。

 「ゆるやか」。はげしくないようす。あるいは、きびしくないようす。あるいは、くつろいだようす。

 違う意味が多い。多義。

 「あわれ」。かわいそうなようす。みじめだ。

 精神的の自立が程度をこすと、人からあわれだと思われることを忌み嫌うようになる。賢明ではない。

 「さかん」。勢いがよいようす。あるいは、熱心に行うようす。あるいは、元気がよいようす。

 サカリという語に鳥獣の発情という意がある。

 「すなお」。ひねくれたところがなく、人にさからったりしないようす。純情。純真。

 思想の全体がすなおだと人にダマされる。しかし多少すなおな人間でなければ幸福な人生は無かろう。

 「たくみ」。てぎわのよいようす。じょうず。

 恋愛とかが巧みだと得をすると思うが、その文脈でこの語を使っている例を見たことがない。

 「ひま」。することがないようす。

 学生は全員ヒマだという観念がある。

 「まじめ」。まごころのあること。いいかげんにごまかしたりはしないこと。

 中身がまじめでも仕事などにおける成果がないとあまり価値がない。

 「まっすぐ」。少しもまがっていないようす。あるいは、正直。正直とは、いつわりのないこと。

 長渕の歌詞はおかしな部分もあるが、マイセルフにあるまっすぐ生きてえという語はまだ評価できる。

 「まれ」。めったにないようす。めずらしいようす。

 やはり他と違うということをバカにされる。価値なし。

 「みじめ」。あわれで、見るにしのびないようす。

 他者に対するそういう指摘じたいが嫌みに近く、何か不吉な語感を持ち、使い道のよくわからない語。

 「みだら」。性的なことでだらしのないようす。

 DECO*27の歌詞でしか聞いたことがない。性にまつわる語の中では「みだら」は語感が雅な方である。

 「啞然」。あきれてことばも出ないようす。あっけにとられるようす。

 副詞は「啞然として」、連体形は「啞然たる」。

 「依然」。もとのまま。前のとおり。あいかわらず。

 文章で使いやすい。

 「愕然」。非常におどろくようす。

 漢和辞典だと単に「びっくりするさま」としてある。

 「毅然」。意志のつよいようす。

 その吉凶は具体的にどういう内容の意志が強いのかによる。

 「凝然」。じっとして動かないようす。じっととは、静かにおちついているようす。

 喋る際は「かたまる」という動詞でよく表現する。人間もよくかたまる。

 「厳然」。いかめしくおごそかなようす。動かしがたく、いかめしいようす。

 法律とかに対して言う。あと音楽でもオーケストラとかの中にはそういう感じの曲があると思う。

 「昂然」。自信をもち、意気のさかんなようす。

 昂という字に「たかぶる」という訓がある。

 「混然」。すっかりとけあって区別がないようす。

 中国の古い思想に、万物は陰陽ふたつの気があつまって出来ているというが、わけがわからない。

 「釈然」。疑いや、恨みがとけてはればれするようす。

 釈然としない書籍とか物事とかのことを理解しようとして長長と思考していても時間のむだである。

 「悄然」。しおれて元気のないようす。しょんぼり。

 人の前で明らかにしょんぼりとしたそぶりを見せられる人はまだ余裕があるではないか?

 「騒然」。さわがしいようす。ざわざわ。がやがや。

 快不快の二つの極しかない。不快でないのはなじんでいる仲間内でさわいでいる時くらいである。

 「断然」。反対・誘惑などをおしきっておこなうようす。あるいは、他とかけはなれるようす。

 国語辞典によれば、副詞。異義に判然がある。判然とは、はっきりとよくわかるようす。

 「超然」。物事にこだわらないで平然としているようす。

 実は身ぶりやそぶりだけ超然としているよりも感情をいつもさまざまに表にあらわす方が幸福である。

 「恬然」。平気なようす。平気とは、おちついて心がおだやかなこと。あるいはさしつかえないこと。

 大抵意外の感を以て人が発する語であろう。意外にも動じない人をさして形容する語であろう。

 「陶然」。心をひきつけられてうっとりとするようす。

 もとは酒に酔う意味らしい。私の意見としては、酒なしに酔う心持ちの方が却って雅である。

 「憮然」。意外なことに驚いて、がっくりするようす。失望して心のしずむようす。

 失望するという際、失われる具体的な希望や期待があるはずである。

 「翻然」。副詞。急に心を改めるようす。

 翻という字をあらためて意識にのぼしてみるとあまり使い勝手のいい漢字ではない。

 「漫然」。とりとめのなく、ぼんやりとしたようす。

 文章は漫然として書くととかく再読にたえないものしかできない。

 「猛然」。勢いのはげしいようす。

 己が猛然としていることを楽しんでいる人もいれば、単にいらいらしていて猛然としている人もいる。

 「歴然」。あきらかなようす。ありありと。

 発話主の感覚しだいであろう。歴然としたもんですと発言する発話主の側ではまさにそうなのだろう。

 「意外」。思いがけないようす。思いのほか。予想外。

 かなり使いやすい語。尤も特にたわむれにおいて使いやすいと思う。面白いものを見た時に使える。

 「穏健」。おだやかで、しかもしっかりしていること。あるいは、極端でなく、適度であること。

 思想などが適度であると言っても、適度でありそうに見せる努力は甚だ要ると思う。

 「可憐」。いじらしく、かわいらしいようす。愛らしいこと。なお、「可愛い」は当て字。

 憐れむべしと訓じると、意はあわれ。かわいそう。また憐れむとは、いつくしむ。めでる。たのしむ。

 「簡単」。ものの仕組みがこみいっていないようす。単純。

 トーマの歌詞に「簡単なカメラで僕を写した」という語がある。

 「綺麗」。物の形・色・音などがここちよい。美しい。

 なお綺麗事という語がある。綺麗事とは、うわべだけが立派で、実のないこと。

 「健全」。健康。すこやか。あるいは、危なげないようす。堅実。

 どんなことも健全であるのが最高だが、それは当たり前である。問題はそれがつまらないことにある。

 「残酷」。むごたらしいこと。

 意味としては薄情であることを指す印象。ただ現代では、漫画における殺しや虐待のシーンに言うか。

 「従順」。おとなしくて、すなおなようす。

 本能に従順忠実/翻弄も重重承知。前途洋洋だし/だからたまに休憩しちゃうんです。

 「本当」。偽りや見せかけではなく、実際にそうであること。ほんと。まこと。

 連体形が「本当の」になる。辞書によれば、「まこと」は形容動詞でない。

 「優雅」。やさしく上品なこと。

 胃、「SIAWASE FOR YOU!」、「優雅な時間ね」。

 「恍惚」。双声。心をうばわれてうっとりするようす。

 副詞は「恍惚として」、連体形は「恍惚たる」。

 「蹉跎」。つまずいて進まないようす。あるいは、不遇で思うようにいかないようす。

 唐詩の中に見た覚えのある語。甚だ嘆かれるニュアンスを感じる。

 「逍遥」。ぶらぶら歩くこと。そぞろ歩き。散歩。

 むだに足が疲れるため、全て無用。せめて何時にどこへ着くとか予定がないといけない。

 「参差」。参は音シン、差は音シ。双声。長さや高さのふぞろいなようす。

 あるいは、いりまじってそろわないようす。

 「惆悵」。うらみなげくさま。失意のさま。うれえ悲しむさま。

 やはり唐詩の語。失意とは、思うようにならず悲観していること。対義は得意。

 「滔滔」。水がさかんに流れるようす。

 杜詩に曰く、「不尽の長江は袞袞として来る」。袞袞とは、ぐらぐらとわきたつさま。

 「徘徊」。うろうろと歩きまわること。ぶらつくこと。

 辞書だと逍遥という語と大して意味の差がない。

 「紛紛」。いりまじって、みだれるようす。

 子どものころ自分の部屋にどうもおもちゃが多くありすぎる気がして何か不安になったことがある。

 「髣髴」。よく似ていること。よく似ているものが思いうかぶこと。

 誤解されているが、物というのは実は全て違う。一つずつ異なり、一つずつ特殊な奥義を有している。

 「繚繞」。まつわりめぐる。

 異義に纏綿がある。纏綿とは、まといつき、はなれないようす。また情がふかく、こまやかなようす。

【短篇小説】命ごっこ

 

     一 年末の街路

 

 空は闇をひろげ、星をちりばめて黙っている。月が出ていない。

 さかんに、うてなの上を伸ばしてある。そういうものが高さをそろえずに、黒い空へ進んでいくように生やしてある。大抵、どの窓の中にもやはり空が塗ってある。目を閉じた先であろう。夢をふくむ色であろう。ここは夜の街だ。尤も、子どもをしりぞけていない。

 にぎやかな通りがある。左右の高い壁にしきられて狭い空しか見えない。並んでいるすべての戸の中から明かりがあふれていて、光を覚えておくと、まるで思い出のようである。道ゆく者は大抵、誰かをつれている。子どもを連れている者もある。時刻はそう遅くない。

 一軒の入り口から甚だ若い男が出てきた。すぐにでも横たわって眠れそうな、ゆるく薄着である私服を身につけている。外へ出たまま入り口をあまり離れずに、スマホを確認しはじめた。広い道はもう人も車も少なかった。スマホの光は彼の顔を照らしていた。

 彼は顔を上げた。誰か現れたけはいを感じたらしかった。果たして厚着の若い女が彼の目の前に立っていた。仮に手を遣ればとどく距離であるに、彼女は彼女の胸の近くに小さく手を振っていた。その顔はにこにことしていた。彼女は彼の身ぶりに気づくと、振っていた手をおろして喋りはじめた。

「久しぶりだね。どうしたの?こんなところで。つまらないよ。一人でいたって」

 男は現実を信じないかのような顔をした。それから、つぶやくように言った。

「瀬川?」

 三拍はどうも相手の姓であった。瀬川は否定しなかったのだから、実際そうであったと取ってよいはずであるが、男はしかし相手へ問おうとする表情をうかべていた。あるいは、先刻スマホを集中して見ていたために、現実というものがスマホの光の中へ移してあったのかもしれない。集中する先をきりかえて彼は瀬川へ応じる語を口にした。

「いろいろあったんだよ」

 彼は落ち着いていた。見ようによっては極めて賢い人物のようでもあった。そうして続けた。

「高校へ一おう入った。まあそれはよかったとして、高校はつまらなかった。試験も全く点が取れなくなっていたな。授業においつく気にもならなかった。それで必然であるところの、逃げるという計を用いることにした。高校をやめて新しい学校へ通うことにした。殺しの学校だ。今おれの後ろにある店の中でやってるのが、その殺しの学校の卒業を祝う意味でやってる、仲間内の飲み会だ。年末でおのずから気分の上がる気味があるから、もうこの時期の時点でやってしまうんだそうだ。おれは中途でやはり馬鹿げた感じがして、参加費を置いて出てきた」

 女は静かに聞いていたが、彼の説明の終わりを悟ったらしかった。実際、彼はもう口をとじて、何か応じる言葉でも待つようなようすであった。その表情は厳しい神をかたどっていた。二人以外の者がここに居れば、その神を全く人の驕りから生じる像と読もうとしただろう。心のはりつめたような表情は人を不快にし、人にとって多く気味の悪い内面を感じ取らせるものである。しかし、瀬川はまるで彼の癖を心得ているようであった。そうして、彼の無言の権幕に動じることなく、すぐに言葉を返した。

「相変わらず、人を傷つけることばかり考えているんだね、村田くん?ねえ。わたしを殺せる?殺しの学校は誰を殺す勉強をするの?そういう職業があるの?それとも、わたしをあざむくためのウソなのかな?わたしは信じないとも気持ち悪いとも言わないよ。ねえ。わたしを殺せる?殺してみてよ」

 男は言語というものを使えない。他方、女が言う言葉は全て甘い。

 

     二 瀬川の話

 

 青年はものうい日である。夏の陽が照っている。街路は少しにぎやかと見える。手ぶらの青年は、歩きながら横目に小さな公園を見た。この辺りは広く長い道が多いから、あるいは車へ乗って来た子どもが遊ぶかもしれない。青年はわが襟を前へ引いた。そうしてもとに返した。

 誰かへ通話をかけた。携帯をかかげて自身の概況を告げた。

「おれはもう自分が何をしたいのか分からない。たぶん生きてくる中途で、おれに学を教えた奴の内の誰かが誤りを教えたせいだろう。どこの誰だか特定できない。さっき町の中に公園を見たんだけどね。無人だった。却って俺の葬式かもしれない。ただ、親が子どもを遊ばせに来るには上等とみえる、何だか明るい陽のさしている公園だったけどね」

 喋ったあとでかすかに笑った。どうも自分が下等な気分であるに反し、他者は公園で遊べる平和な空想を心にえがいている己を笑ったらしかった。彼は幸い、嫌みのある口をきかなかったのだといえるだろう。人は己を快からぬ状態にしている時、覚えず他者へ嫌みを言ってしまうものである。彼はそういう段におらず、なおも楽しみ、自由に軒から軒へとぶらついていた。しかも嫌みが楽しくなる倒錯など全く知らぬのであった。ただ、一人で楽しめる強力な精神は、この世に尋常でないだけ奇怪であるが。

 また手ぶらになった青年は書店の戸の前に瀬川を見つけた。瀬川は青年の同級の女子であった。尤も同級だった中学は既に卒業して、今となっては殆ど接する機会のない関係である。

 青年は半袖であった。瀬川は大きな日傘を広げていた。青年はあいさつして話を始めた。

「ものうくないですか今日は?」瀬川は黙って何事も伝えない目をしてうなずいた。青年は続けた。

「あなたに出くわしたら聞こうと思っていたことがあるんですよ。あなたとよく一緒にいた村田くんのことですけどね。正直彼のことどう感じます?何かおとなしい態度を誇る一方、人へ自然にふるまうことに安んじない、頭の一貫しない気持ち悪い人物だという印象なんですけどね。以前からどうしても」

 瀬川はなおも日傘の柄を小脇に抱えて動かなかった。青年の問いへはあっさりとして答えた。

「あいつはみんなとはちょっと違うから」

「しかし違うだけでは単におかしいという意も含むはずです。すると彼が身近にしたしくしていた人びとの側では、彼の価値が多少知れていたことになります。じぶんは彼とは当時接点がありませんでしたから分かる望みも持てませんでしたよ。人というのはまず接点があるというところから関係というものが始まり、そうして関わっていく中で互いのことを覚えていくものですからね」

「今日は何をしにここへ?」青年は「迷惑ですか?」とたずねた。瀬川は否定して続けた。

「昔かれと殴り合いでもしたことがあるんですか?そんなに記憶にとどめてあるということは」

「たぶんありません。じぶんはね、別にかれと競う気もなければ、知り合おうという意志もない。しかしあなたがたのようすは記憶にあります。あなたは彼のことをいつも褒めていました。必ずまわりの者に聞こえるほどの声で彼と喋っていました。いや。時に彼へ一方的にあおりの言葉をさけび彼の表情を気まずそうなものにゆがめ苦しめさえしていたものです。教室の中においてね」

 青年は当時の瀬川のみだらな行いを暴露した。街路をゆく人びとは少数ながら、時に顔をしかめる者を有した。青年によれば、瀬川は村田の背中へ向かって制服ごしに胸をおしつけたことがある。その際、瀬川は「これ使う?」と相手の耳もとでささやいた。使うとは、自慰行為の際に思いだして心にえがくことを意味する。青年は明確に、当時のことを知らぬ人がきいても分かるほど丁寧に説明した。

「あの子はね」瀬川は大事そうに言った。「みんなの見ていないところで努力ができる子なの」

 

     三 殺しの学校

 

 まだ寒い二月、町の中でも比較的ひらけていて店の多い通りに、休日の昼間の空をいただいて村田はスマホを見ながら歩いてきた。村田は前の年末に駅前の方へ出て夜の飲み会へ参加した。駅前と比べると、今いるひらけている通りは第一、軒と軒との間隔がだいぶ遠い。歩道が弧をえがいて内側をあまし、二輪や徒歩のほしいままにする尊い領土をいやしいほど食らったところがある。低く短い歩道橋をへだてて、通りから裏へ出たところにある民家の群がいかにも田舎らしくのぞけている。まあスマホへ視線や考えをそそいでいる村田は、そういう価値のない風景をあえて意識する必要がない。したがって、目的のところへ着くと、料亭の戸の前で立ったまま、或る人物が来るのを待ちつつも、スマホから関心をそらす身ぶりを見せない。なお、飲み会といっても、彼は酒を飲まない。第一成年でない。大人から飲んでいいと言われても飲まない。大方、飲むことの価値をかかげる大人を前にすると、何だかだまされている気がするせいだろう。所へ彼の待っていた人物が来た。大柄の中年男性で、村田の近くへやってくると、どうも思考の労に老いたような眉を上げて笑いをうかべ、村田へ言葉を遣った。

「腰かければいいじゃないですか。人の勝手でしょうけどね、体力がもったいないですよ。個人的に言うとね、一般的ではないが、じぶんは子どものころを思いだしてしまうな。よく一緒に帰る友だちがいたんですよ。話題が尽きないから、交差点の前で二人してだべっていると、日がくれてしまう。或るときは教員が車で来て早く帰れと指導してきたものです。自分らは見つかれば解散して、次の日から別のところでとどまるようにしていた。反省なんてない」

 言葉は弾むようであったが、少し声音を変えて別の内容へ展開した。

「今じゃわたしが教員であるにしてもね。それにしても、あれだけ長く家へ帰らずにいられたのは、親が家にいなかったからだな。こういうような時間のあまり方というのは重要ですよ。しかし、親が仮に家にいたのなら、わたしは早く帰っていたのかな?居た経験が無いから分からない」

 村田は自分の意見を少し加えた。教員は朗らかに笑った。二人は店の中へ入った。

 

 テーブルをへだてて二人は腰掛けへ掛けた。背もたれは木製であった。他の客は騒がしかったが、まあ運がよかったのか、おかしな人などは見受けられなかった。しかも窓が大きく、その先は無限の距離を認めなくてはならない晴れ空であった。村田は教員から習うように喋った。教員は村田との時を己も学ぶようにして教えた。その話は以下のようであった。

「おれは結局どこで働くわけですかね?四月から」村田は低い背を快く真っ直ぐにしながらたずねた。

「そう。四月という具体的な時期が重要なんだよ。四月、きみはどっかの山の中で関所を守る仕事につくことになる。ひまな仕事だよ。きみはね若い時点で干されている身なんだ。殺しの学校へかよったきみは、今の世に忙しくない仕事へつくことになる。思うに、きみにはそれが向いているという評価が下ったためだろう。なんだか気になるな。そんな解釈をこうむるような振る舞いを君はやったかね?」

「人が行う解釈なんて筋道の無いものでしょう。おれは要らない人間かもしれないですね。第一、おれは親も祖父母も生きてるが、みな俺との関係下に無い人たちなんです。てんでに別別の人生を送っている。知り合いも少なからず居るが、何か俺を規定する絶対の定義をなしうるかといえば、誰にもできないみたいなんです。それにしても、関所の番人か。実際のところ、人を殺す機会というのは有るんですかね?いや。それはまあ言いませんよ。ただ、殺しの学校なる環境は一年間かよってみて悪くなかったな。第一、誰だって卒業できますもんね。能力に個体差が出ない。こういう領域は一番すきです」

 

     四 先輩と私

 

 地平をさえぎる山では木の葉がそよいでいる。池の見える軒端では蘭の香が感じられる。ここは山あいに設けられた関所で、昼も夜も番人はとりたてて仕事がない。かわりに大きな熊や鹿が現れる。そうした時は大変である。しかし、何か策を練るにも番人はものうい。第一やりかたというものが身についておらず、いつも関所に二人が駐在しているのだが、一方が他方の心をはばかるから、事をおこす意見というものが浮上せずにしまう。しかし、私は絶対に生きのこるだろう。夕方になると、私は出勤する。そうして村田先輩にあいさつする。彼は二言のない男で、私が配属する前は同僚のしとやかな女性から好意をむけられていた。私は色恋に関心がない。出勤するとすぐに板敷きに横たわる。花園をへだてて見える、涼しげなかすみのとりまく遠い峰へむけて体をうごかす。今日はこんな会話があった。

「先輩はこういう時音楽とか流さないんですか?私は実家に居たころ妹が爆音をかますから毎日気持ち悪くなっていました。親とかは何か別のことに集中していたのか、敢えてとがめなかったみたいなんですけど。とかく他者がきいている歌というものは気持ち悪いものですね。知りたくもない歌詞が気づくと自分の頭の中でも反復されているんです。本当に、頭というものはまるで見境のない雑食動物ですね」

 予て私がとうとうと自分の回顧をのべおえると、先輩は必ずしもことばを返さない。もとより、雑談というものはこんなものであろう。私はしびれをきらすようにして、ふすまの開け放たれた先へむかって、ひとりごとのような考えをぶちまけてしまう。精を吐きだしたところを見ると、依然として闇のたくわえられた緑の濃い林がしずまりつくしている。

 それにしても、私はこれといって先輩に対してうやうやしくする必要を覚えてはいないのだ。どうもどこかで見た漫画にこんな場面があった。いや。自主規制しよう。多少かざって言うが、それは若い男女がたわむれに互いの体の形状をののしりあうというものだった。艶笑を狙った作品だったようだが、雑誌に連載されていた期間は甚だ短かった。線香花火の類で、せつなにニーズにこたえた趣向をそれ以上えがきつづけることがむずかしかったのだろう。私は先輩へ話をかけたことを、精を吐きだしたなどと言い換えている。私は襟を正して歩く十六歳の女で、無意識に、しなをつくっていることさえある。そんな私が彼のようなたくましく背の高い男性を前に、頭の中とはいえ、自分が精を吐きだすなどと事をとらえているわけは私が彼をかろんじているからだ。皮肉に取ってやろうと思っているからだ。精という字に皮肉がやどっている。ところで、あの艶笑をねらった漫画はじつにあさましくできていたものだ。

 意外にも、先輩は夕食をあたためる電子レンジを設定したあと、水道から飲み水を汲む音をたてながらこんなリアクションをしめした。聞きようによってはその声は私の言ったことに共感をおぼえたかのようにやさしいものであった。しかし、共感から出ていそうな、玉をころがすようなさまをうしろに、ぼんやりとした頭の私はそろそろまどろんでくる段であった。常識から言えば驚くべきことに、さっきひとりごとのように喋った、これといって筋のない音楽や歌詞の話だけで、私の頭から足のつまさきへ到る体の状態は眠る用意をととのえてしまったらしかった。あるいは、意志というものが私の頭の中にかよっていたとすれば、私は彼の玉をころがすような不自然な美声へは耳をかしたくはないらしかった。

 声音ばかりでは人となりは分かるまい。ただ、どこかで同じ声音の男性と接した際に、何か嫌みを感じて、いまだに頭が忘れずにいるのかもしれない。私の頭のことは私の知りつくしていることではない。彼はこんな冗談を言った。しかし、そのあいだ、私は玉という字から男の或る物を連想してしまった。

「森がざわざわとして鳴っていますが?」

 

     五 村田の話(一)

 

 そろそろ夏も終わる。涼しくなってきている。空は曇り、近ごろ続いていた雨も中途で絶えるようすをしめしている。陽の足らぬ下では、あるいは心を落ち着かせるお休みの段にある人にはおあつらえむきの、全く車のよぎっていかない国道をたいらかに敷きのべている。視界の奥では、厳粛ともいうべき無言を以てケヤキがむらがっている。

 村田は天から飛行してきたかのごとく、民家の垣にしきられた角から曲がってやってきて、真横から国道のふちへ降り立った。黒い衣をはおり、前のボタンをとめてあった。広く大きな足の下に、人しれず雫を点じたように彼はぽつんとして国道のふちに居た。

 しばらく歩くと国道沿いの料亭へ到着した。以前、殺しの学校の教員と会した店とは無論ことなり、国道をへだてて向かいに少し古く見える書店がある。古いと言っても、看板が色あせているだけで、およそ書店というものはどこに建ててあっても、そこで購えるものが全てもとより古い品であろう。村田は料亭の前へ足をとめて、これから来る人を待ったが、やはり手にはスマホを持ち、その板に映るものへと視線をそそいでいた。彼は書店へ寄っていくことが日常に有るだろうか?まあ彼のことであるから、彼のみぞ知ることとしよう。とかくスマホを使えば書というものは要らない。書によって得られる文章を仮に必要とするとしても、スマホを使えば同じものがその板に映し出される。しかも純粋に情報を得ることに重きがある場合、文章よりかは動画の側に速やかさを認めるべきかもしれない。人によっては動画の方が分かりやすく、且つ面白く、体感から言っても画面の中で起きていることを現実に近く感じるかもしれない。他方どうも文章は抽象に偏する嫌いがある。動画の方がよいだろう。村田はスマホで何を見ているのだろうか?何でもよい。ただ、スマホは手軽に持ち運べる。書よりも小さい。そうして、常時ネットにつながっている。この際まあ人間の裸か何かを見ていてもおかしくない。

 

 彼は人のけはいを感じて顔を上げた。淡く快く白に似通う藍で染まった洋服を着た、まるで人を悩殺するような端正な姿をした田中が現れた。彼女は村田の後輩で、二人は山あいの関所へかよって暇な番人の仕事をともにしている。勤務は毎度夕方からで、夜になると代わってくれる人が出勤する。なお、或る時は田中が「ここは暇ですね」などと先輩へ告げて、彼女のようすはあたかも退屈しているようであったが、村田はにやにや笑うだけで特にことばを返さずにしまった。今日は二人して全休であった。これから昼食であった。

 昼食に誘ったのは村田であった。スマホを仕舞った彼へ対し、みずみずしい表情をした田中は言った。

「先輩の教育によくありませんね。そんなものを見て。漫画や芸人にしてもひどく悪いのに」

「何かいやな言葉だな。どうも誰かに前いわれた気がするな」村田はかくさずにいやな顔をした。

「因みに、親族以外の男性と二人きりで会うこと、わたしは初めてではありません」

「へえ。ところでこのあたりの土地へは来たことはありますかね?」

「わたしが?」田中はよく喋る。村田は「まあ」と雑に言う。田中は答えた。

「わたしはムダなことはしないですね。家にいます」

「田中さんも一人ぐらしですよね?」

 田中はげらげら笑った。村田は少しおののいたような身ぶりをした。

 多くの付き合いというものは、その拠りどころや前提を想像に補われている。時に、想像が暴れ出して人の意志を排斥することさえある。したがって、田中が男の体に関心を持っていたとは限るまい。

 

     六 村田の話(二)

 

 或る日、村田は番人の仕事を終えて退勤した。今日も田中がよく喋ったから、ものうい気持ちに襲われずにすんだ。山の中の道は細く長く、車が二つの列をなすに足らぬ幅であった。村田は歩いている内に暑く感じ出して、一おう羽織ってあった衣をぬいだ。多少ひろい所へ出た。石だたみが敷いてある。自動販売機がドリンクを売っている。村田は水を得た。その場で立ったまま片手で傾けた。

 所以は無いが、そろそろ誰か来るなとでも思ったのか、やはり顔を上げた。

 笑いを浮かべて現れたのは、或る同性の友人であった。ゆったりとした服装であった。その恰好やそぶりは無理が無いというか、ここを自然にとおりすがった印象を有していた。二人はあいさつした。

 友人は、うれしげに言った。

「最近まるめこまれる勢いなんだよ。もともと、おれは従順な性質が有ったけれども、穏健に暮らしていて、何か追われている感じだ。すぐに、いっぱいいっぱいになる。しかも、すぐに心がふさいで、何もせずにベッドの上にだけ居たくなる。でも、お前にたまたまあえたのはまあよかった」

「他者が居ると紛れるんだろう?まぎらわすことは意外から出るふしが有るからな」

「なんでこんな所に居たんだよ?」

「さあ?それにしても一人で水をのんでいたというのは、やはり恥ずかしいな。部屋でのまないのも変だし、いきなり外に居るのもおかしい。姿をさらすのが恥ずかしいな。自分がいきなりそこへ存在していて、いきなりお前のとおった所にいたわけだもんな。惜しいよ。この恥をおれがたまたまこうむったのは惜しい。次から気をつけよう」

「恥ずかしいって?」友人は恥ずかしいという語に何か連想したらしく村田の顔を見た。

「互いに知ってる顔の人物というものは、互いに恥をかかないよう生きる点で契ってある必要がある」

「そんな必要あるかね?おれはいつも、いっぱいいっぱいになっているくらいなのにさ」

「それはお前、人に対して偉いんじゃないかね?もともと偉い家にでもうまれたのかね?そういうことなら、憂えている余裕があるわな。本来権利があるかは別の話として」

「瀬川さんはやはり誰かと関係を持っていたのかね?」

 関係とは情事の意であった。また友人は村田を今日見つけた段から、瀬川の話がしたかっただろう趣を濃厚にまとっていた。村田は瀬川という語をきいて、わざとらしく驚いたようすを見せた。しかし、友人は猛然として続けた。

「俺らはあのころから恥ずかしいことを進んでやっていたんだよ。ためらうことを知らずに」

「恥ずかしいことって、まさか性欲がか?異性に接することを全て性欲の形の変化として捉えてしまう俺たちの思考がか?」

「違う。では、俺の認識するところを教えてやる」

 友人は二人して同じ中学にかよっていた時期の話を始めた。村田はひどく昔である話にあきれたような表情を見せた。鼻を天へむけて上を見たりした。友人へ事を否定したりした。友人によれば、かつて仲間内で瀬川の女として優れている点を論じ合った記憶は思い出である。瀬川はわれわれの思春期にあっては女神であった。最も官能に訴える肉体や精神を有していた。同級ゆえ、今となっては彼女も当時と異なる人物である。友人としては、当時の彼女に目の前で接した覚えが甚だ艶麗と感じられる。

「もしかすると、今でも使えるかもしれない程度にすごい。瀬川は」友人は興奮して言った。

「使うなよ。物じゃない」潔癖めかした村田は、無意味ながら、異性の印象を守った。

 

     七 後輩と私

 

 そろそろ夏が過ぎる。わずらわしい陽ざしも遠のく。私はゆるやかな喜悦を覚える。

 自認は精神が強い印象だが、万事にかけて目ざとく喜ばしいものを見つける知覚というものは全く無用でない。精神は頭から成る像だが、頭が予て快感を欲している。私の欲するところではなく、私の頭がそういう性質を有している。いや。私だけがそうであると困る。困るが、別に気にする必要は無い。これは娯楽に関しても言えることで、人によって異なる楽しみが有るが、まあ大抵は意味の分からない内容ばかりで、つまり、その間は人は子どもにもどるのだ。そして、私は遊びというものを馬鹿にしている。気に入った事を遊びと呼ぶことがない。

 快感が足りないと精神が死ぬ。私は精神が強い。だが、快感が足りなければ病む。

 

 村田先輩の後任で私よりも若い者が入った。姓は河野で、かわいらしい姿をしており、背中までおろせるだろう髪を一つに結っている。背は私よりも低い。村田先輩の方がよく喋る。私はよく喋る方が好きだが、河野は一緒にいる人を落ち着かせる性格をしているので、まあいい。

 それにしても、村田先輩はあまりにも猛猛しい精神をしていたと思う。もしかすると、幼かった折にそういう人格を大人から強いられたのかもしれない。あるいは、自分でそういう人格が必要だと感じる経験を有するかもしれない。いや。もうしばらく会うことはない人だから、直言してしまおう。あの人はつまらない驕りに満ちていた。だから、自分を軽やかにすることができない。私は彼みたいな人物が好きではない。それはそれとして頗るよく喋った。私から好かれていると誤解されていたら甚だ迷惑ではあるが。

 河野は心の揺れというものを殆ど表に出さない。あいそは有る。まあ賢いのだ。そうして嫌みが無い。

 私は電子レンジから夕食を出した。河野へさしだすと、礼を言ってくれた。こういう基本的なやりとりが私の生きがいである。ついでに過去における似たような例を思いかえしていると、河野がめずらしく自ら喋り始めた。目が私の体から見て斜めに一点へ集中していたので、何か思い詰めているようでもあった。

「やっぱり、ここは夢の中なんですかね?」

「まあそういう解釈もあるね」

「先輩は自分の思想というものは無いみたいですね?」

「まあ普通は人に合わせるからね。あと恰も空っぽのようにして人との衝突を防ぐ意義もある」

「ここで死んだら現でどうなるんだろう?」

 一瞬の内に私は深く考えた。現で破滅したら面白いとか、単に眠りから覚めるのではないかとかいろいろ考えが生じてきた。河野は腰掛けに掛けて夕食をみつめている。私は立って相手をみおろしている。彼女は一定の習慣をくずさない人物である。食欲が無いわけではあるまい。私は言った。

「破滅したら面白いけどね。現ではどこか、まじめな集団か何かの構成員をつとめていて、そこで不正とか人道からいって許されない行為とかに出て、集団から追い出されるとかね」

「先輩は死んだことは有るんですか?」

 分からない。

「まあ死んでよみがえったことが有るとすれば、もう死んだ記憶に関しては忘れているみたいだけどね」

 河野は私のことをあまり知らない。私も河野のことをあまり知らない。まだ今の段階では。

 

     八 山あいの関所

 

 また夕方になった。仕事の時間だ。山の中の道を歩いていく。風景はカエデが紅葉している。

 仕事の前、しかも徒歩で足を労して向かう中途は、仮に人との話題に上げれば心の楽しまない印象を有するものかもしれない。しかし、私は昼間は深く長い眠りについていた。覚めてから頭が快感をあましている。仕事へ急いでいるわけではないが、視界が変わっていく時間が速い。いま起きていること、私が職場へ到らんとする行為は当然と全く同じであるのだ。固より狭く土に埋まった下を見てはいない。暮れようとする秋空へ視線を遣っている。体感数秒もなく職場へ着いた。

 私は縁側に坐してやはり上の方を眺めた。たよりなく漂う雲に心づいた。いつものように、何かこの雲と似たような例は私の過去にないか、今までに目にしたものの記憶をさかのぼった。しかし、雲というものを特段の印象ある存在に感じないので、自分の記憶を尋ねる甲斐というものが無かった。

 どうも私の知覚につまらないところが有ったらしい。まことに仕方なくがっかりした。思えば、昔にぼんやりとして目にした漫画などは断片を忘れずにいるのに、こうして全く脱俗した山の中にいると、実は私の閲歴や心得とはまるで関連するところの無い自然しか現前してこない。こういうことを察したためしは初めてではないだろう。別に幼い者でも直観から分かりそうなもので、要するに己とのつながりが無く、これと自分とで互いに交わる接点というものが既存でないのだ。まあ欲しがっている者であれば、あるいは努めて近づき、接点を作ろうとする線もあるだろう。具体的に言えば、なじんでおくに利のある人物へと積極性ある接近をし、相手と自分とにあって似かようたしなみ、習慣か何かをさがしていく行いである。しかし喋らないといけない。たとえば、雲などは人と仲よくする期待が感じられない。人語を解せぬ存在である。勢い会話にばかり好ましさを覚えて、とかく喋ってくれる人を身近に置きたがる私の性質とは甚だ合わぬのである。概して私にとって言葉は全て喋るためにある。スマホを個人だけで扱う意義など頭に入れるに苦しむ。あれは主に通話や連絡をやるための道具だろう。道具として使った上で、やりとりしている相手と目の前で会う予定のないことは馬鹿げている。

 大抵、他者は夢の中に生きているようなもので、現というところを分け合って時空の或るプロセスに乗じる自由というものは、そう人の意志から出る作為で純然たる像をなせるものではない。見知らぬ或る人とのゆかりに又ある人が編んで組まれて、極めてしたしく思われるほど、定まった関係下へ入る仕儀など余程生じうる現ではない。この点、他者は夢の中から出た雲であろう。雲と接するために、必ず疲れるほど条件を合わせる仕事がある。仕事といっても、当然、労働の類ではない。ひどく入り組んだ規則を詳細言い難く集団が有していて、規則の分かった段で初めて彼らの仲間入りを果たすことができる。この規則を学ぶことが仕事である。私はこういう仕事が好きではない。なぜかといえば、これを好む者を見たためしが無い。誰も好まぬ仕事を愛することはできない。仮に出来たとしよう。私は他に同じ心をもちあわせる者のいない異常かつ奇怪な人物ではないか。

 運わるく、雲であるところの私はこのままリラックスした想像の中に安んじて凝然とした落ち着いたわが身のもの思いを美しくは遂げず、また雨か何かに変じる自由もなく、とわに心の憧れる存在というものを一つ確かに浮かべるに到った。それは形だ。時をこえて崩れることのない形を保っていて、昔に見た人が再び目にすれば、やはり過去のものと同じであると認めるような一定である形だ。

 今、私はあるいは罪のような無形に甘んじている。まあ罪かもしれない。人がそしりそうに感じる。

 もはや自分が無形になってから、どれくらい時間が過ぎたのかも全く知らぬのである。これほど穀潰しのごとく、世界の一部をむだに占めていて、いまだに罰を受けない。何か裁かれたためしが無い。

 

     九 冬の庭先

 

 河野は職場の庭に立った。軒の下にヒイラギの白い花を見た。体が冷えるので、襟巻きを巻いてあり、心の尺度が天外か地底に重く据えてある気味があり、とかく余計に庭を徘徊する身ぶりが無かった。他方、縁側に田中が坐していた。河野は振りかえって田中を見た。田中は目前に暖かそうな暗い朱に染まった外套を認めた。このころ辺りは虫の音が聞こえた。そうして二人の目は決して真っ直ぐに合うことがなかった。陽がすでに沈み、真っ暗になっていた。田中の傍らにはコップが置いてあった。彼女は靴を履いていなかった。庭へ足をなげだしていた。少し目を斜に伏せていた。薄い紺を羽織っていた。

 河野は慎みある口を開いて田中に問うた。しかし、敢えて何か言う気味は無かった。

「田中さん?ここに来たってことはやっぱり」田中は「うん」と言った。河野はあっさりと続けた。

「人を殺すことに関心があるんでしょう?今まで生きてきて、殺したいと思った人とかいます?」

 この関所では、丁度よぎろうとする者が現れた場合よほど殺す決まりになっている。規定では、過る者が己の身元を明かすことができるのであれば、許可してこれを通行させなくてはならない。しかし、予てあまりにも人がおとずれないのだから、いつしか規定は誰の覚えからも忘れ去られてしまった。しかのみならず、奥深く生い茂る森林のようすは、ここへ足を運んだためしの無い地主の想像にも気持ち悪く映った。いや。地主だか誰だか詳らかでない。とかくここを管轄する者がここを忌み嫌っている。現場で番人に勤める側でも、敢えてこれほど怪しい道へ過っていく手合いは、まあ大方まさに人の世に対して甚だ後ろめたい事を担っているはずであると考えている。したがって、河野や田中は関所の前へ誰か現れたら余程その命を奪う必要があるだろうと覚悟していた。

 尤もそれは仮にこしらえてあるような覚悟であった。ここへ現れる者は自分ら二名だけに限ると二人は信じていた。信じない必要が無かった。なお、彼女らは自分の義務以外の事を強いて探るべきではないと考えていた。勤務はする。決して苦しまない。われわれには生活がある。日常を築いている。

 田中はなぜか楽しげに笑いながら向こうの林を見ていた。そのまま平然として河野に答えた。

「河野さんの前任者はわりといけ好かなかったけどね。男の人だよ。なんか私といると変な空気になるからさあ、私はちょっと不快だった。私は彼に関心が持てないんだよ。それなのに、私はつまらない気分でも敢えて笑ってしまう癖があってね。いや今は馬鹿馬鹿しく感じているわけじゃなくてね。私が本当に人を殺そうとすることがあると仮定すると笑えてきてね。それで彼の話だけど、私がよく笑うからって私から好かれていると誤解されたくないんだよ。君だってそうでしょう?同じ立場になったら。それでも私は優しいから敢えて笑うのを自分に禁じたり全く止したりはしないし、別に優しすぎるわけでもなく、特に意識して振る舞うことにつくづく倦んでいるから、結局よく笑うままの女だった」

「前任者さんはどんな人でした?田中さん、私のこと田中さんは君って言ってくれるんだから、余程したしいじゃないですか。君って二人称すきです。前任者さん、彼とはどうだったんですか?付き合いは」

「まぬけだったね。たぶん熊にでも食われて居なくなったんじゃないかな?全然しらないけどさ」

「私これ以上きいたりしませんよ。でも意外ですね。田中さんいつも幸せそうなのに」

「ただ喋っているだけでひどく人の頭を痛ませる才能みたいなものが世の中にはあるよ。しかしそれにしても、一方でここの仕事は大変すばらしいですね?かまびすしい音が無い。私たち以外人語が無い。花が香っている。気がかりなのは、君の前であまり頼れる先輩って顔ができないことくらいかな」

「静かなのが好きなんですね。今おいくつなんですか?」

 田中は河野に笑顔を見せながら「十七」と穏やかに言った。

 

     十 仕事仲間と私

 

 私はここへ勤めてずいぶん経った。季節は春、庭先へ柳が垂れる。縁側へ横たわる心持ちはいつまでも減じないで快適である。また日が暮れる。たそがれの闇があたりへ迫る。

 後ろを見た。後輩の瀬川さんが水道の前のテーブルへ頬づえを突いていた。私は言った。

「まあ今いるここはゲームの中ですねえ。テレビゲームですよ。現実へ帰れなくなってしまった。ひどく依存しているんだ。つまり、治れば帰れるわけでしょう。意見です。さっき考えてみました」

 瀬川さんは私の後輩だが、歳は上らしい。予て彼女へはどうも慕わしく、私の側が彼女へ頗るなついている感じであるが、どうして彼女のような清らかな人がこんな所へ勤めているのか分からない。突きとめたい気もするが、このまま未詳にしておく方がよほど好ましいので、敢えてたずねるということはしない。彼女は私につりあわないほどに人品が高いのだ。運よく私の相方になってくれたにすぎない。

 しかし彼女のことが気になるから語の内容を曲げて変な意見を言ってしまった。昔、私の好きな河野さんがここは夢の中じゃないかと問うてくれたことがあったが、これは当然の問いである。私たちの居るところは恐ろしいほどの山奥なのだ。私などはもう故郷の所在すら全く忘れ去ってしまった。いや。故郷からたどってきた道に関してはすべて記憶していなくても仕方あるまい。

 私の言葉は即ち、病によって私たちがここへ到るのであるという意味をふくんでいた。無論瀬川さんへは失礼であるし、本来つつしむべきだった発言である。私は春にうっとりとして軽はずみになっていたのだ。しかし、瀬川さんはやはり寛大というか、全然嫌みとして受け取らなかったらしい。

「誰かが言っていた気がするんですが、それは負けてもやり直せるという点で現実と異なりますね。仮にいきなり熊や鹿が現れて、あらあらしく私たちを殺していってしまったら?」そう瀬川さんは答えた。

「ああそうか。治るか治らないかではないんですね」私は庭先をながめている。

「実際は繰り返しが無い前提だと思いますよ」瀬川さんは間をあけて「ほとんど」とつけ加える。

 丁度いい時刻になったので私も腰掛けに掛けて、電子レンジで温めた夕食をふたり一緒に食べた。この段になるといつも私は瀬川さんの横に掛ける。なぜか差し向かいになろうと思えない。これに関しては、まあやはり私に特有であるところの妄想になってしまうが、所以はかつて私が人生で最も楽しい食事をした際、一緒に食べた仲間が私の隣に居たことであってもおかしくないだろう。思うに、人は無意識の内に快感あるためしへ行為の癖を寄せようとする。空論だ。ざれごとを思っている。

 退勤する時刻となった。私たちに代わって働く夜勤二名が来た。その内一名は村田先輩であった。

 私たちは互いにお疲れ様ですと言った。そのあと村田先輩は夜中らしくしめやかに言った。

「いったい瀬川はどうしてこんな所へ勤めることにしたんだよ?大学へ行けばよかっただろう」

 私は驚いた。私が彼女へ聞けないことを先輩は簡単そうに聞けていることに驚いた。

 瀬川さんは答えた。彼女は誰に対しても引き締まった態度を見せる。

「誰かが言っていたのかな、世の中には大学へ行きたくても行けない人がいろんな事情でいるって」

「ほらね。田中さん、瀬川はこうなんだよ。自分の話をしたがらない。こいつは、まるでごっこ遊びみたいに自分が自分ではないらしいんだよ。実家がだいぶ銭を持っていたはずであるに、そのことをなぜか無かったことみたいにしたがる」先輩は学費のことをいっているようだ。「学力も十分」と加えた。

「田中さん。今から変なこと言っていい?」瀬川さんが言った。目を閉じて笑みをうかべていた。

「何です?」

「やっぱ村田くんに会いたいじゃん?」

【語感 (5/10)】形容詞120

 「あかるい」。光が十分あって、物がはっきり見えるようす。

 対義は「くらい」。

 「あさい」。(垂直方向に)表面から底までが近い。

 対義は「ふかい」。

 「あさましい」。みじめだ。なさけない。あるいは、心がいやしい。

 古語では、あきれるほどひどい意。いま実用にたえる意は「心がいやしい」であろう。

 「あたたかい」。熱すぎない程度に温度が高くてここちよい。

 対義は「つめたい」。

 「あたらしい」。初めてである。今までにない。

 対義は「ふるい」。

 「あつい」。物の一つの面から反対側の面までのへだたりが大きい。あるいは、気温が高い。

 対義は「うすい」。あるいは、「さむい」。

 「あつかましい」。ずうずうしい。恥しらずで、無遠慮である。

 そしる意味でしかいわない。実際、あつかましい者は人の恨みを買って破滅しやすいのだろう。

 「あどけない」。むじゃきで愛らしい。むじゃきとは、すなおでなんの悪気もないこと。

 玩具ほしさに、大人に媚びる子どもがいて、甘えた声を出したりするが、あまり偉くはない。

 「あぶない」。今にもほろびそうだ。くずれそうだ。あやうい。

 同人のぎどれ先生は危うく若い女に関心がある。みきとP「少女ふぜゐ」、「見境なく生きていたい」。

 「あまい」。砂糖のもっている味がする。塩けがたりない。からみがすくない。

 対義は「からい」。あるいは、「にがい」?

 「あやしい」。異様な感じで、気味わるく、警戒を要する感じだ。

 そしる意味もある。

 「あらい」。こまかでない。

 対義は「こまかい」。粗密なり。荒の義は然らず。

 「あわただしい」。せわしない。いそがしい。めまぐるしい。おちつきがない。

 おだやかな時には言わない。漢語のいわゆる造次。造次は双声の語。

 「いじらしい」。あどけなくて、かわいい。あるいは、いたいたしくて、かわいそうなようすである。

 現前で言っている人を見たことがない。「かわいい」といえば足りる。

 「いそがしい」。急ぎの仕事に追われている。用事が多くて、休むひまがない。

 せわしいといっても同じ。

 「いたい」。鋭い刺激をあたえられたり、内部に具合の悪いところがあったりして不快な感じがする。

 教室で殴り合いをするとその場にいる者からうとまれるようになる。

 「いたましい」。かわいそうで、胸がしめつけられるようだ。

 同情、思いやりの心をもたぬ者には理解できない語であろう。

 「いとしい」。かわいい。いとおしい。

 使い道のよくわからない語。単に「好き」でよいのでは?

 「いまいましい」。はらだたしい。しゃくにさわる。しゃくにさわるとは、気分を害する。

 当世、大抵のものはいまいましいと思う。

 「いやしい」。身分・地位が低い。あるいは、下品だ。げびている。

 対義は「とうとい」。ただし、必ずしも「とうとい」という語に「上品である」との意味はない。

 「うしろめたい」。やましいところがあって気がとがめる。良心がとがめる。うしろぐらい。

 この語を知ってからどうもしっくりと来た或る感情がある。

 「うすい」。物の濃度・密度が少ない。或は、物の一つの面から反対の面までのへだたりが小さい。

 対義は「こい」。

 「うたがわしい」。本当かどうか、信じられない。

 そしる意味もある。ふつうは「信じられない」というと思う。

 「うつくしい」。人の心を感動させるほどすばらしい。

 対義は「みにくい」。

 「うとい」。そのものとの関係がうすい。したしくない。行き来しない。

 対義は「したしい」。

 「うとましい」。このましくない。いやだ。

 目下か同格くらいの者に対して言う。目上の者へは仮にうとましくてもうやうやしくするしかない。

 「うまい」。味がよい。おいしい。

 対義は「まずい」。

 「うるわしい」。心があたたまる感じだ。あるいは、整っていてうつくしい。「みめうるわしい。」

 フィクションでしか言わない。私もこの前、或る篇の小説に「うるわしい青春」という語を用いた。

 「うれしい」。たのしさ・快さなどの好ましい感情が心にわく。

 対義は「かなしい」。

 「うれわしい」。うれえるべきだ。なげかわしい。悲しい。

 当世、大抵の物や事はうれわしいと思う。

 「えらい」。すぐれている。偉大だ。

 社会的地位が高い意味もあるし、低くてもまじめにやってるとか罪がないとか徳がある意味でいう。

 「おおい」。物の数や量がたくさんある。

 対義は「すくない」。

 「おおきい」。物の量や事の程度が他を上回っている。

 対義は「ちいさい」。

 「おかしい」。正しくない。変だ。

 そしる意味だが、子どもとかが未熟な感受性で妙なものをおもしろがっていることはよくある。

 「おさない」。こどもっぽい。考えがたりない。未熟である。

 そしる意味しかない。しかし、公立中学とかでは不良とかから目をつけられない努力とかが必要。

 「おしい」。欲やみれんなどがのこって思いきれない。

 くやしい、ともいう。あきらめがつかない意。事を全うするとは、あとに思いをのこさぬ意であろう。

 「おそい」。速度が速くない。のろい。

 対義は「はやい」。

 「おとなしい」。おだやかでおちついた性質である。荒っぽくない。

 おとなしくても、家でゲームばっかりやってる子どもはダメ。ゲームというのは教育に悪すぎる。

 「おもい」。目方が多い。重たい。

 対義は「かるい」。

 「おもしろい」。楽しくて心がひかれる。愉快だ。

 対義は「つまらない」。

 「恩着せがましい」。いかにも恩を着せるようなようすだ。

 恩着せがましい方が悪いのか、着せられている側がひがんでいるのか、よくわからない。

 「かいがいしい」。きびきびと、てきぱきと、けなげに仕事をこなすさまをほめていうことば。

 たぶんこのことばを使う人は感動しているのだろう。よくはたらく者を見て。

 「かしこい」。りこうだ。頭がよい。

 概ねほめる意味であろう。「さとい」でもいい。

 「かたい」。むずかしい。困難である。あるいは、木材などの質が強い。

 対義は「やすい」。あるいは、「やわらかい」。なお、「やわい」というと敢えてとがめる意になる。

 「かっこいい」。好みに合った物や事がらをほめることば。すてきだ。

 異性に対して感じられると吉。

 「かまびすしい」。音・声がやかましい。さわがしい。かしましい。

 別に「うるさい」でいい。「さわがしい」もある。

 「かわいい」。思わず愛したくなるようす。

 異性に対して感じられると吉。

 「かんばしい」。においがよい。かおりがよい。

 中学の時、やけにいい香りのする同級の女子がいた。はっきり言うと、官能的な香りであった。

 「きたない」。よごれている。清潔でない。

 精神的に言うと「けがらわしい」となる。言動にいやしさが感じられる場合であろう。

 「きつい」。小さくてしめつけられるようだ。

 対義は「ゆるい」?

 「きびしい」。ちょっとのことでも見のがさずに注意するようす。厳重だ。

 対義は「やさしい」?

 「きまずい」。おたがいの間がしっくりせず、うちとけない。

 最近言う人が多い印象。

 「気持ち良い」。気持ちとは、体の状態についての感じ。気分。

 対義は「気持ち悪い」。なお、「気味わるい」とは、何となくこわいようで気持ちがわるい意。

 「きわどい」。わいせつに近い。わいせつとは、性に関することを、みだらにとりあつかうこと。

 子どもは好む。大人は立場上嫌う。

 「くだくだしい」。長くてむだが多い。

 人が趣味でつくる文章は大抵くだくだしい。私などもそうで、これは仕事でないからである。

 「くどい」。しつこい。濃厚すぎる。

 スイーツがあますぎる意味でもいう。私は最近、もう栄養になるものしか食っていない。

 「くるおしい」。気が狂いそうである。狂わしい。

 みきとP、「文字恋」、「恋はくるおしい」。精神のマゾヒズム。

 「くるしい」。心が悲しみや後悔などでせつなくてたえられない。

 対義は「たのしい」。

 「くわしい」。細部までよく知っている。

 学者は専門にくわしいが、教えるに巧みとはかぎらない。

 「こいしい」。したわしい。あるいは、なつかしい。

 べつに恋じゃなくてもいう。

 「こころよい」。気持ちがよい。あるいは、ゆかいである。たのしい。

 快適である。快感を覚える。快楽を味わう。実は、努力も快くなければつづかない。

 「こわい」。心に不安や危険を感じる。おそろしい。

 恐い教員は然らざる教員に劣る。

 「さびしい」。孤独で心ぼそい。親しいものがいなくなって、心が浮きたたない。

 スマホを一つ持っていればまず必要ない言葉。

 「したわしい」。ある人に心がひきつけられ、そばに寄りたい気持ちだ。

 嫌な人に対しては起こらない。よって罪悪感がある。しかし、実は嫌な人とはかかわらなくてよい。

 「しつこい」。しゅうねんぶかい。うるさい。あるいは、程度がつよい。くどい。

 親族ほどしつこいものはない。交際に期限というものがない。

 「しらじらしい」。本心でないことが見えすいている。しらばくれるようす。

 全ての人に対して本心から接するということはできないのではないか?

 「しんどい」。くたびれてだるい。たいぎである。

 大抵意味をなさない言葉である。いくら疲れていてもいそがしい時はいそがしい。

 「すがすがしい」。気分がさわやかである。さっぱりしていて、気持ちがいい。

 最も快い。

 「すごい」。ぞっとするほどすばらしい。

 ふつう好きな相手に対してしか言わない。心をうばわれていることの告白として機能する。

 「すずしい」。寒くない程度に気温が低くて、ここちよい。

 体の状態についての感じ。

 「すばらしい」。すぐれてりっぱだ。みごとである。

 公正な評価を行いたい場で用いる語。好きな漫画とかに対して言うことはまず無い。

 「するどい」。先が細くとがっている。鋭利だ。

 対義は「にぶい」。

 「せまい」。面積が小さい。あるいは、幅が小さい。

 対義は「ひろい」。

 「たかい」。基準とする面から上への距離が大きい。

 対義は「ひくい」。

 「たくましい」。体ががっしりしている。

 何がいいのか分からない。

 「たけだけしい」。ひじょうにいさましく強い。

 胃「クリエイトがある」、「猛猛しく竹立て掛けてクリエイト・ガール」。

 「ダサイ」。みばえがしない。あかぬけていない。やぼったい。

 よく分からないが、美意識に関係する語。

 「ただしい」。標準・基準と一致している。

 少時、どうも信頼しがたい大人ばかり周囲にいた。実際、誰の言も半ば合っていて半ば間違っていた。

 「たどたどしい」。動作が未熟であぶなっかしい。

 そのうちに慣れる。

 「たのもしい」。たよりにすることができて、心づよい。

 大学が文科だったから私は甚だ心もとない。この四年間、とかく成果といえるものが無かった。

 「だるい」。体がつかれて力がない。

 すぐ眠れる場合は良い。

 「ちかい」。空間・時間のへだたりが少ない。

 対義は「とおい」。

 「つたない」。へただ。まずい。

 小中学生の折、合唱で伴奏のピアノを弾いていた。甚だ徒労であった。しかも練習は過酷であった。

 「つよい」。力があってくじけない。

 対義は「よわい」。

 「つらい」。くるしい。心がくるしめられる。

 この心、唐詩によく詠まれている。人類にとってとりたてて新しい感情でもないのだ。

 「とげとげしい」。言葉・表情・態度にやわらかさがなく、けわしく、あらあらしい。

 たまに甚だとげとげしい人物という存在がいて、皆からうとまれている。

 「ながい」。両はしのへだたりが大きい。

 対義は「みじかい」。

 「なげかわしい」。なげかずにいられないほど情けないありさまだ。情けないとは、あさましい意。

 苦しいとかみじめだとか言えば足りる。敢えてなげかわしいという語を用いる人はいない。

 「なつかしい」。昔のことが思いだされて、心ひかれる。

 しかし、好ましい記憶をむりに保とうとする努力は要るまい。すべて現在の快楽に劣るだろうから。

 「にくい」。相手にしかえしして、自分と同じつらい気持ちを味わわせてやりたいほど、腹だたしい。

 なぜ存在するのかよく分からない感情。極まると人を殺すに到るだろう。

 「につかわしい」。似あわしい。ふさわしい。

 運動会など、もりあがっている側に合わせるのがむずかしいイベントというものがある。

 「ぬるい」。期待していたほどの温度に達していない。

 食物に関して、あまりにもぬるいと食いづらい場合はある。

 「ねむい」。ねむりたい気持ちだ。ねむたい。

 感情でもあり、体の状態でもある。

 「のぞましい」。そうあってほしい。このましい。

 まず具体的な目標があって、次いで目標へ到る具体的な努力を認識しなくてはならない。

 「はげしい」。勢いがするどい。勢いがつよい。

 とかく官能的な語。

 「はずかしい」。劣等感があって、人目をさけたい気持ちだ。

 いくら勇ましくても恥は知っておいた方がいい。

 「はなばなしい」。はなやかである。めざましい。

 見方によってはすぐに滅亡する。また、薄っぺらく感じる。

 「はればれしい」。空がよくはれわたっている。

 夏の場合、暑すぎて快さというものが無い。

 「ひどい」。むごい。てあらい。残酷だ。

 残という字に、「のこる」以外の意味がある漢語の例。

 「ひらたい」。たいらである。

 平面は全て人の手で加工されている。

 「ふさわしい」。ある物が他の物とつりあいがとれて、適当である。似合っている。

 釣り合いという語は時に嫌みに聞こえる。

 「ふとい」。まわりが大きい。

 対義は「ほそい」。

 「まぎらわしい」。似かよっていて、区別がつきにくい。混同されやすい。紛れやすい。

 その方面に詳しい人ほど物それぞれの特徴をおさえている。

 「まずしい」。びんぼうである。びんぼうとは、収入・財産が少なく、くらしがまずしいこと。

 貧しい家の子も不良になるが、富める家の子も不良になる。

 「まどろっこしい」。のろのろしていて、じれったい感じである。

 無意味に取り組むからまどろっこしくなるのだろう。別の事に取り組んだ方がよい。

 「まぶしい」。光がはげしくて、まともに見ることができない。

 現実でそういう物を見たことがない。

 「まるい」。円形である。円とは、ある平面上で、中心から等距離にある点のつづいてできた曲線。

 同じマルでも球は三次元だという印象。

 「みすぼらしい」。身なりがわるい。まずしそうで貧弱だ。

 稲葉・松本、「ギリギリchop」、「僕に似合う服なんかありゃしないのよ/世紀末の流行色」。

 「みずみずしい」。新鮮で、生き生きしている。わかわかしく美しい。

 美は美であるが、美にばかり目ざとい感性をした人はどこか心がいやしい。

 「むずかしい」。簡単に片づけられない。

 それはいきなり高い課題を設定するから難しくなるのだ。

 「むなしい」。内容がない。

 無である。空虚である。あまりめでたい印象のない語。

 「めずらしい」。まれである。めったにない。

 人から馬鹿にされる。

 「めでたい」。よろこばしい。祝福すべきである。けっこうである。

 興亡とか何らかのギャップを経験しないと何がめでたいか判断できない。経験こそ学びであろう。

 「めまぐるしい」。目の前の物がはげしく移動するので、目がちらつき、正しく見ることができない。

 でかい駅の構内の印象。

 「もどかしい」。思うようにいかず、じれったい。

 しゅぶに、という人が「もどかしい世界の上で」という歌をほめていた記憶がある。

 「ものうい」。何をするのもおっくうで、気がすすまない。ゆううつで、気が晴れない。

 めんどう、とかダルイ、とか言うよりも、どうも雅な語に感じる。まあ意味はだいたい同義であろう。

 「ヤバイ」。よくないことが見つかったり、つかまったりする恐れがある。あぶない。

 或るとき女子から「ヤバイですか?」と心配そうに聞かれたがどういう意味かよく分からなかった。

 「わかい」。年齢が少ない。

 やがて死ぬことを踏まえると若ければ若いほどよいということになる。

 「わかわかしい」。たいそう若く見える。

 若者の中にも老いて見える個体というものがある。

 「わずらわしい」。迷惑に、また不快に感じ、遠ざけたい。

 なかなか消えてくれないという印象。しかし、消えることを祈ること自体が多少いやしくもある。

【語感 (4/10)】文法23

 「しかし」。前のことがらと反対のことやふつりあいなことが次にくることをあらわす。

 言い換えに「にもかかわらず」があるが、英文法では譲歩と習った。国語辞典では連語。

 「だから」。前のことがらを原因や理由とすることが次にくることをあらわす。

 ゆえに、したがって、なのでなどの言い換えがある。文章では「なので」はやめた方がいい。

 「さらに」。かさねて。その上に。

 かつ、また、しかもなどの言い換えもだいたい同じ。「それだけではなく」も可。

 「そして」。前のことに次のことをつけくわえる意味をあらわす。

 まあ「さらに」と似たようなもんだと思う。

 「これ」。自分が指をさしたり、手に持ったりしている物をさしていう語。

 話者が己の側にあると感じたものが「これ」になる。人の側にあると感じたものが「それ」になる。

 「誰」。話し手または聞き手のしらない人物をさしていう語。

 物のことを「何」といい、人のことを「誰」という。別に「何者」と人をいってもいい。

 「のみ」。それと限る意味をあらわす。

 ダケと言っても同じ。「しかない」ともいう。文の初に「ただ」をつけてもよい。

 「から」。とおってくるところをしめす。あるいは、動作の起点をしめす。

 ヨリと言っても同じ。「ゆりかごから墓場まで。」動作主もしめす。「人から笑われる。」

 「さえ」。極端な例をあげて、他を当然のこととおしはからせる。「俺さえ大学に行く。」

 デモ、あるいはスラと言っても同じ。

 「もう」。すでに。もはや。

 ツイニとかもある。ツイニは、しまいに。とうとう。なお、「結局」はがっかりする意もある。

 「仮に」。それを仮定するようす。

 モシと言っても同じ。あとの文が「であれば」とか「ならば」とか「だったら」とかになる。

 「こと」。その内容を名詞化する。

 名詞節をつくる。「これは、他校よりもウチの学校の女子の方が容姿にすぐれるということだ。」

 「なんて」。意外な気持ちをあらわす。

 動揺をあらわす。「俺が負けるなんてありえない。」

 「に」。いきつくところをしめす。

 到るところをいう。「ワセダにいく。」実は「へ」でもいい。「遠くへいく」。

 「なり」。断定をあらわす。

 形容動詞の語幹につく。

 「たり」。断定をあらわす。

 漢語の畳韻・双声とか、○然とか○如とかにつく。

 「できる」。することが可能である。

 可能をあらわす。「飛行することができる。」可能動詞もある。「ワセダに行ける。」

 「られる」。受け身の意味をあらわす。あるいは、可能・自発の意味をあらわす。

 実は「感ぜらるる」とも「感じられる」ともいえる。前者は古典文法。

 「か」。驚き・詠嘆・願望などをあらわす。あるいは、疑問・質問をあらわす。

 だいたい詠嘆か疑問。「夜明けではないか!」ナイは反語。「俺は負けるのか?」

 「参上」。まいること。行くことの謙譲語。

 漫画でしかいわない。

 「と」。引用をあらわす。内容をあらわす。

 引用。又聞き。デカルトによれば、「われ思う、ゆえにわれあり」ということだ。

 「私」。自分をさす語。

 小中高では女子がいう印象だったが、社会人にあっては関係ない。

 「ない」。うちけしの意味をあらわす。

 あとに「そう」をつけることがある。「ワセダ行かなそう。」